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    源平・歴史ウォーク 
      一の谷合戦・坂落としコース

        INDEX(1)須磨浦公園〜鉄拐山尾根
              (2)一ノ谷〜敦盛塚 / まとめ
      源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース   *
              (2) 一ノ谷〜敦盛塚 / まとめ
 「一の谷への分岐」道標  ここを右折して歩きます。

 一の谷への分岐点で、ボランティア・ガイドさんの説明がありました。
    源平一の谷の合戦の概略と、義経が三草山から須磨一の谷に進軍するコースの
    説明を聞きながら、800余年前の歴史ロマンに思いをはせました。

 一の谷に至る道は急な坂です。 ここを下りて来るのはけっこう大変でした。 
    ボランティア・ガイドさんの説明によると、
    昔、この一帯は松林だったそうですが、一度焼けて、今のような雑木林になった、
    それから、義経の時代の馬は、今より小型で、脚の太い力馬だった、 そうです。
 今日の私たち一行の中に、義経の道案内をした鷲尾三郎義久の子孫の方が
    参加されていることが判明!
    まるで義経主従 70騎になったような気分で、一気に下山です。

 須磨一の谷(赤旗谷ともいう)
    義経軍は、鉄拐山南山腹(写真左)からこの赤旗谷(写真中央)へと下ったとされています。

 鎌倉時代に書かれた「源平盛衰記」に、
    「辰半に鵯越一の谷の上、鉢伏礒の途(蟻の戸)という所に打ち登り、
    兵共遥に指のぞきて谷を見れば、軍陣には盾を並突、士卒は矢束をくつろげたり。
    前は海後は山、波も嵐も音合わせ、左は須磨右は明石、月の光も優ならん」
    と記されていて、ここらあたりが論拠になっているようです。

 義経が坂落としをした場所がどこだったかについては、
    鵯越本道から坂落としをして、会下山を経て、本陣・福原京に
    攻め込んだとする異説があって、現在、論争中です。
    この「義経坂落とし」論争が、第2の「邪馬台国」論争のようになって、
    おおいに盛り上がるといいですね。

 この坂道を下ってきました。
    こんなにも急な坂を義経は坂落としできたのでしょうか。

    時は旧暦2月7日、写真のような下草の多い時節ではありませんでした。
    松林が多かったとすれば、源氏軍最精鋭の義経軍が下山できない、とは断定しがたいです。

    赤旗谷は狭い谷なので、ここで大規模な合戦が行われたとは推定しがたいですが、
    ここはむしろ、義経軍は下馬して、平家軍に気づかれないように静かに下山し、
    平家軍の背後に忽然と現れて奇襲に成功した、と考えるほうが自然ではないでしょうか。

    事前の軍議で決まっていた合戦開始時刻(午前6時)に遅れること 2時間、
    義経の参戦が遅滞したことを考えあわせると、義経が下った坂は悪路、
    道案内人がいなければ行けないような坂だったのではないでしょうか。

    もうひとつの坂落としルート「鵯越本道」にも急峻な坂があり、
    地理的条件には余り違いがありません。
    義経軍は、このふたつのルートのいずれを行軍しえる能力を持っていました。

    それでは、義経はどちらのルートを行軍したのでしょうか ?

    もし須磨一の谷コースを下山したとしたら、
    鵯越本道よりも坂が急峻なので、時間がかかり、
    平家に事前に察知されて、待ち伏せ攻撃を受けるリスクがより大きい。
    反面、平家の油断を買う確立が高く、奇襲作戦のリターンが高い。

    義経はハイリスク・ハイリターン型の人間のようなので、
    どちらを選びますかと問えば、須磨一の谷コースと答えると思います。

    が、案内人の鷲尾三郎義久がふたつのルートを知っていたかどうかは、定かではありません。
    鷲尾三郎義久は東下(現・北区)の猟師なので、
    いずれかひとつのルートしか知らなかったとすれば、
    義経は彼が提示したルートを行くしかなかったでしょう。

    ああ、また、ふりだしに戻ってしまいました。
    古き時代の奇襲戦の考証は難しく、
    今川義元が戦死した桶狭間古戦場の址も、名古屋市緑区と豊明市の二ヶ所にあって、
    今も今川義元の本陣がどこに置かれていたのか、特定されていません。

    視点を変えてみましょう。

    もし義経軍が坂を下りおりた地点の直近に平家の陣がなかったら、
    そこですぐ開戦とはなりません。
    義経は素早く陣形を整え、そこより少し離れた平家の陣に向かって進撃したでしょう。
    義経軍は右に行くことも、左に行くことも、直進することも可能です。
    この時点まで平家軍に気づかれなければ、義経の奇襲は成功するでしょう。

    平家軍は北に懸崖をもち、北からの攻撃に備えていませんでした。
    南は海なので、東と西をかためておけば大丈夫。
    義経は、この平家の油断を突きました。
    義経にとって重要なのは、どの坂を下るかではなくて、
    どの平家の陣を奇襲するかだろうと思います。

    平家の北の本陣を突くか、西の陣の背後を突くか。
    もしあなたが義経なら、どちらを取りますか。
    この答えがわかれば、義経の坂落としルートは決します。

    これからの「義経坂落とし」論争は、源平両軍の直前の軍事配置、
    義経の奇襲作戦の目的や内容、平家軍の敗走時系列などを、
    ひとつひとつ検証しながら行われる必要があるのではないでしょうか。

 安徳天皇内裏跡伝説地
   一ノ谷の坂をのぼった高台に「安徳帝内裏跡伝説地」の石碑があります。

   安徳天皇は、平清盛の娘、建礼門院徳子を母として生まれ、治承4年(1180年)2歳で即位,、
   壇の浦で平家滅亡とともに祖母二位尼(平時子)にいだかれて入水(1185年)した悲劇の天皇。

   須磨一ノ谷に一時内裏をおかれたとの言い伝えがあり、
   安徳天皇の冥福を祈って、この地に祀られているのが安徳宮(写真)です。

   義経に与えられた命は、平家を滅ぼすことと、平家の擁する安徳天皇と三種の神器を確保すること
   にあったとされており、
   この安徳天皇内裏跡は、義経「一ノ谷坂落とし」説を支える史跡のひとつとされています。

   ただ、内裏がこの地にはおかれていたのは、
   中部・北陸地方での戦いに敗れた平家が一旦都落ちをして西下した時(1183年)という説や、
   平清盛の邸宅「雪見御所」のすぐ北(兵庫区平野・堂仏)に建てられた「本皇居の平野殿」に
   似せて造営されただけという説もあって、
   源平一の谷の合戦の時に安徳天皇がこの地に身を潜めていたかどうかは、定かではないようです。

  高台から須磨海水浴場が間近に見えます。

  南坂(七曲り)     コース最後の下り坂です。

 源平史跡 戦の浜碑           山陽「須磨浦公園」駅から東に500m
    ここは山が海に迫る懸崖の地で、平忠度軍が西をかためていたところを、
    三草山から西に迂回した源氏・土肥実平軍(約 7000騎)が攻めたて、
    源平一の谷の合戦の最激戦地となりました。
    平敦盛が戦死したのも、この近くだったようです。   

   源平一の谷合戦の最激戦地だったとは思えないほど、今は静かな松原を抜けて…、

    海の水澄む 須磨海づり公園の前を通って…、


 平敦盛胴塚へ              山陽「須磨浦公園」駅から西に200m
    源平一の谷の合戦で、源氏の武将・熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔です。
    地上部の高さが約 3.5メートルもある大きな五輪塔の石塔で、
    鎌倉幕府執権・北条貞時が平家一門の供養のために建立したと伝えられています。   

 この平敦盛塚を見て、「源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース」は無事終わりました。
           坂越えの 謎多くして 須磨の秋    俳子

 義経坂落とし・歴史ミステリーの謎解きは、その謎が深まるばかり…となりましたが、
    とても楽しい一日でした。
 
 最後にひと言
    あなたも「源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース」に参加して、
    美しい須磨の自然を味わい、源平歴史ロマンにひたりながら、
    義経坂落とし・歴史ミステリーの謎解きにチャレンジしてみませんか。     

 「源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース」概要
    毎月第4日曜日に開催      山陽「須磨浦公園」駅前 10:00集合     小雨決行
    コース:須磨浦公園〜ロープウェイ〜回転展望閣〜旗振茶屋〜一の谷坂落とし下り口
         〜安徳帝内裏跡〜戦いの浜〜敦盛塚〜須磨浦公園駅   約 5km 一般向
              約 2時間のコースをボランティア・ガイドが案内します。
    申込:電話にて受付(先着 50名、要ロープウェイ片道運賃 350円)。
              なお、団体10名以上)は別日時スタートの相談も受付
    問合せ:須磨浦遊園  電話 078-731-2520(営業時間 10:00〜18:00)

 この1年半後に、福原京跡と兵庫津の道を訪ねて、
    義経坂落とし・歴史ミステリーの謎解きに再チャレンジしました。

       福原京跡と兵庫津の道を訪ねて

    源平一の谷の合戦において、
    平家総大将・宗盛の本陣が大輪田泊(和田岬付近)に置かれたことによって
    兵力手薄な砦となった福原京(雪御所町)を、
    源義経主従70騎が鵯越筋から烏原古道(清盛参詣道)を通って直撃・急襲したとする
    新説「一の谷 = 烏原谷〜福原京」説を展開しています。
    ご覧になっていただければ うれしいです。

    なお、「源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース(本稿)」と
        「福原京跡と兵庫津の道を訪ねて(新稿)」の記述において、
        論理的整合性を欠く箇所がいくつかあります。
        執筆日時が違うことによる齟齬で、
        旧稿(本稿)は改稿するか、廃棄するかしかないのでしょうが、
        旧稿(本稿)の未熟がなければ新稿もなかったわけで、
        旧稿(本稿)を原型のまま掲載しています。  

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