福原京と兵庫津の道を訪ねて

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  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
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    平清盛参詣道と丹生山田の郷
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                         須磨一ノ谷の道
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                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
         生 田 の 森 の 陥 穽 T  * *
 福原京造営にのりだした清盛の軍事的な基本構想は、
   ・本陣を石井川と天王谷川と六甲山系(菊水山)の急斜面に挟まれた三角地帯に置く。
   ・夢野<山の手>に兵站基地を築き、福原京本陣の背後を固める。
   ・京都方面からの攻撃に対しては、
     主力軍を生田の森に配して、生田川で迎え撃つ。
   ・西国からの攻撃に対しては、須磨・旗振山の堅塁で防ぐ。
 この清盛陣形は堅固そのもので、
   天下を取る人の構想というのは、やはりどこか違うという思いがします。
 が、この清盛陣形にも陥穽というものがあって、
   この稿では、そのひとつ、生田の森の陣の陥穽について考えてみたいと思います。


                                   

 今回の舞台となるのは、生田の森(標高21m)。

 生田の森は生田神社拝殿の背後に広がる森で、
    左写真のように、樹齢800年をこえる楠大樹が鬱蒼と生い茂っています。
 現在は1,600uの広さしかありませんが、昔は、
    現在のフラワーロード(旧生田川)あたりまでおよぶ広大な森であったと言われています。


                              
 左写真は生田神社(神戸市中央区下山手通1-2-1) 公式サイト
 生田神社は201年(摂政元年)に創建。祭神は稚日女尊。
    (稚日女尊は伊勢神宮に祀られる天照皇大神の御幼名)
 境内の松尾神社にある杉の木に向かい、恋愛成就の願い事をすると
    願いが叶うとのいい伝えから「縁結びの神様」として親しまれています。
 創建当初は布引山(砂山・いさごやま)に祀られていましたが、
    799年(延暦18年)に大洪水にあって、現在地に移転したと伝えられています。
 この大洪水の際に、祠の周囲に植えられていた松の木が洪水を防ぎ
    切れなかったため、現在でも「松の木頼むに足らず」として
    境内に1本も松を植えず、元旦には門松の代わりに杉飾りを立てています。
 806年(大同元年)「生田の神封四十四戸」ありと古書に記され、
    この「生田の神封」一帯が社領であったことから、
    神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)が、 この地一帯の呼称となりました。


 生田の森は神戸(かんべ)の要地で、幾度となく合戦の舞台となりました。
   1184年(寿永3年)源平一の谷合戦の際には、平家・
      平知盛軍が布陣して、源氏の範頼軍を迎え撃ちました。
   1336年(延元元年)、九州から京都を目指した足利尊氏が
      新田義貞を破った湊川合戦の戦場となりました。
   戦国期には、謀反した荒木村重公が拠っていた花隈城を
      織田軍が攻める際に、この地に陣を構えました。
   この生田の森に布陣して合戦に勝利できたのは織田軍のみで、戦績は1勝2敗。
 左写真は、生田神社境内に設置されている「史蹟 生田の森」案内板。


                      

 左写真は生田の森の南西部分。

 堅塁でないにもかかわらず、この地が布陣地に選ばれたのは、
    生田の森が京都と西国を結ぶ交通の要衝にある広大な森であるがゆえであって、
    必ずしも戦略的な利・不利ではなかったようです。


                         

 左写真は、北野天満神社境内から見た生田の森。
    白い三角屋根の向こう側、高層ビル群の手前の緑が生田の森。

 北野天満神社(標高75m)は神戸・北野町の坂の上にあって、
    ここから約 2.5km南に下ると、海があります。


                               
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 源平一の谷合戦の頃は、今よりも少し海が近かかったと思われますが、
    生田の森に陣をかまえると、この南北約 2kmの凹凸の乏しい防御線はかなり長大で、
    これを線として防衛するとなると、兵の拡散を免れがたく、兵の拡散を恐れて
    生田の森に密集して布陣すれば、どの方向からも攻撃を受けやすいことがわかります。
 左写真は、「KOBE de 清盛2012 大輪田泊会場歴史館」に展示されていた絵地図(近世)。
    下部に表示さてている地名は、左から順に、「布引滝」、「生田川」、「神戸」


                         
 この生田の森の陣は堅固ではありませんが、
    この近くに陣を構えるのに適した地が他にありません。
    六甲の山際近くに陣を構えると、大部隊を収容できるスペースがなく、
    大きな合戦をする部隊の陣となると、生田の森しかないのです。
 森の東を流れる生田川沿いに逆茂木(さかもぎ)を並べて敵に対峙するほかない清盛 !
 清盛陣形の弱点は、京都に最も近い生田の森の砦が
    地形的に堅固ではありえないというところにありました。
 このことは清盛も重々承知していて、彼が秀でているのは、
    この弱点を補う術を知っていたことでした。
 左写真は生田川(標高38m地点)。    



 左写真は、「北野越背山散策路」より望む生田川。

 現在の生田川は、左写真のようにJR新神戸駅西すぐより、まっすぐ南に流れていますが、
    源平合戦当時には、西にやや蛇行してから、現在のフラワーロード筋を流れていました。
    また、川幅は今ほど広くなかったようです。


                          
 生田の森の陣が破られたとき、どうするか。
    生田川第一防御線の内側(西側)に「第二の防御線」を構築する。
    これが清盛の出した答えでした。
 平野祇園神社(標高64m)や祇園遺跡邸(標高30m)を要とし、
    左翼(山沿い)に邦綱宇治新亭や北野天満神社、
    右翼(天王谷川沿い)に頼盛山荘(標高25m)、
    「楠・荒田遺跡」砦(標高30m)を配する、専守防衛を旨とするV字型の陣で、
    生田の森開戦時には守備隊によって護られ、生田の森陣の後方支援・兵站基地となり、
    生田の森の前線が崩壊した時には、生田の森主力軍が
    このライン拠点まで退却し、これに福原京本陣の増派救援部隊を加えて
    敵軍に対峙する、 という清盛「第二の防御線」。
 この「第二の防御線」は、脆弱な生田川第一防御線と違って、
    強固堅牢な防衛陣となるものでした。
 左写真は平野祇園神社。清盛第二防御線の要の位置にありました。


 清盛はこの「第二の防御線」をどのように構築したのか ?
    14回目の発掘調査(2011年)で見つかった祇園遺跡(兵庫区神田町)から見てみましょう。
 祇園遺跡は平安時代後期(福原遷都前)の遺構(左写真)で、
    平家に関係する貴族層に仕える地元有力者の邸宅であった可能性が高いとされています。
 祇園遺跡は平野祇園神社の 300m南にあり、この屋敷は平時には
    平家ゆかりの地元有力者の住まいとなり、戦時には福原京東側前面の
    砦となったのではないか、 と推測される要地にありました。
 本稿執筆後の2013年10月、18回目の祇園遺跡発掘調査が行われ、
    天王谷川左岸沿い(兵庫区上祇園町〜下祇園町)で、
    平家有力者の邸宅跡と思われる平安時代後期の掘立柱建物6〜7棟、井戸4基、
    区画溝、石組み遺構、道路遺構、京都系の土師器の皿などが見つかりました。
    これらは、本稿が推論した「清盛・第二の防御線」論を裏付ける
    広範囲遺構の一部であったと考えられます。

                       
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