福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


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              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
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    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
          生 田 の 森 の 陥 穽 U    * *
天王谷川左岸沿いを更に南に行くと、荒田八幡神社(左写真)があります。
    荒田八幡神社(神戸市兵庫区荒田町 3-16-1)は、
    平野祇園神社の南 1kmの所にあって、標高24m。

荒田八幡神社の西側すぐを天王谷川が流れていて、
    この西斜面は急峻です。

この荒田八幡神社の近くに、
    平清盛の弟・池の大納言頼盛の山荘(別荘)がありました。


荒田八幡神社から東へ150mほど行くと、
    「楠・荒田遺跡」が発掘された地(左写真・標高28m)に出ます。

現在は神戸大学医学部附属病院の立体駐車場となっていますが、
    「櫓跡と推定される特異な掘立柱建物跡、およびその南に
    東西方向39mにわたって並行する2本の壕遺構」や
    「福原遷都の時代のものと考えられる京都系の土師器皿」が
    出土したことから、清盛の時代には、
    大納言頼盛山荘と並ぶ軍事・生活拠点だったと考えられています。

平野祇園神社、祇園遺跡、頼盛山荘、楠・荒田遺跡の砦は、
    いずれも天王谷川を背にして、
    戦時には生田川から攻めてくる敵に対峙する軍事拠点となり、
    清盛・雪見御所本陣の前面を守っていたと考えられます。


清盛「第二の防御線」の左翼陣がどうなっていたかというと…、

清盛「第二の防御線」右翼陣が天王谷川を背にして、
    線ないしは面で防御陣地を築いているのに対して、
    左翼陣は六甲山を背にして点で防御する陣形となっています。
この地の六甲山は急峻な山裾野をもっていて、北側(山上側)からの敵攻撃を
    不可能としており、死守すべき雪見御所本陣からも遠いことから、
    孤立しても攻略されにくい地に孤塁が構築されたのでした。
この左翼陣は、「生田の森」陣を突破して清盛本陣に迫ろうとする
    敵を高所より牽制するという軍事的な役割を担っていました。

 左写真は、神戸北野美術館前より見た六甲山の山裾。
    神戸北野美術館は写真中央にあり、
    その奥すぐに神戸北野天満神社があります。
    雪見御所本陣は、写真左端の更にその先あたり(写真撮影
    地点より西南西 2.7km)に設営されることになっていました。





左写真は神戸北野天満神社(神戸市中央区北野町3丁目12)。

    神戸北野天満神社は、
    神戸祇園神社の東北東 2.6kmの所にあって、標高75m。
    本殿が下から見通せないほどの急坂の上に建っています。






左写真も神戸北野天満神社(写真中央)。

    神戸北野天満神社の背後は絶壁となっていて、
    この地が、生田の森を見下ろす要害だったことが
    わかります。


左写真は山手熊野神社(神戸市中央区中山手通7-28-30)。

山手熊野神社は、神戸祇園神社の東南東 1km、
    生田の森の南西 1.6kmの所にあって、標高40m。

この近くに、藤原邦綱の宇治新亭があって、
    戦時には、「生田の森」陣の後方・兵站基地となり、
    「生田の森」陣崩壊時には、清盛本陣防衛の最前衛となる
    砦でした。

山手熊野神社の北隣にある神戸市立山の手小学校の地には、
    日本帝国陸軍の「神戸連隊区」の関連施設があったとされ、
    明治時代以降でも軍事的要地でした。


左写真は宇治川(うじかわ)。

宇治川(宇治野川)は再度山南麓を水源とし、諏訪山西麓を経て、
    大倉山の東すぐを流れる川。
    現在、下流は暗渠とされ、暗渠の上は
    メルカロード宇治川と称ばれる商店街になっています。

「邦綱・宇治新亭」は、この宇治川を背にする高台にありました。
    清盛本陣から見ると、宇治川も防御線のひとつで、
    その外側に「邦綱・宇治新亭」砦があるのは、
    「邦綱・宇治新亭」砦が「生田の森」陣の兵站基地である
    がゆえなのでしょうが、
    藤原邦綱が藤原盛国の子で、清盛直系でないことと、
    あるいは関連していることかもしれません。


左写真は大倉山の東側斜面。
    大倉山は神戸祇園神社の南南東 900mにあって、標高は40m。
    宇治川は左写真中央左寄りを流れ、ここでの標高は 17m。

 大倉山は、清盛「第二の防御線」にあっては、
    .六甲山と天王谷川が形づくるV字形の地の前面中央にあって、
    清盛本陣防御戦の軍事的要地でした。

 「生田の森」陣を突破して清盛本陣に迫りたい敵軍が
    この大倉山を手中に収めることができれば、
    清盛本陣はたちまち窮地に陥ることから、
    大倉山の北面・南面には戦時砦が構築される
    手筈になっていたと考えられます。


                         
清盛「第二の防御線」は、
 ・そそり立つ六甲の山と
    流れの速い天王谷川が形づくるV字形の地(高台)に
    密集構築された砦群でできあがっており、
 ・このV字形の高台の前面中央には、
    敵の侵入を狭める大倉山(標高40m)があって、
 ・平安時代末の防御陣形としては類まれなものだったのではないか、
    と推測されるものでした。

左写真は、平野祇園神社から見た生田の森。
    写真中央右寄りの緑が大倉山公園。その左の小さな緑が生田の森。
      生田の森は、この写真では中央やや左より、
      神戸市庁舎と神戸ポートタワーの間に見えます。
    生田の森は、平野祇園神社から直線距離で約 2km東にあります。
    手前の緑は平野祇園神社の樹林。


                            
それでは、源平一の谷の合戦の平家総大将・宗盛は、
    生田の森の陣をどうとらえていたのでしょか。 
宗盛は生田の森が合戦の主戦場で、
    しかも生田の森が堅塁でないことを承知していました。
宗盛がとった作戦は、
    ・平家最強部隊(知盛・重衡軍)を配し、
    ・平家兵力の多くをさいて、その周りを固め、
    生田の森陣の強化をはかる というものでした。
宗盛は、清盛が考えた<生田の森>陣形を踏襲し、
    東から攻める範頼軍にそなえました。
    知盛・重衡軍軍は善戦し、範頼軍は苦戦しました。
が、ここに「生田の森の陥穽」ともいうべき落とし穴があることに、
    宗盛は気づいていませんでした。

 左写真は、大倉山公園から望む神戸・生田方面市街地


                             
宗盛のおかした過ちは、生田の森陣の弱点を補うために
    兵の多くをこの地に投入したことにありました。
清盛陣形の本陣は雪見御所の地にあり、その兵の一部を
    生田の森に増派しても、なんの問題もありませんでした。
    (自軍の手薄なところを補修するための兵や、勝機を見出したときに
     出撃する兵を保持しているのが、本陣なのですから)
宗盛陣形は、戦の進展具合に関係なく、合戦前に
    清盛雪見御所本陣の兵を三分割しました。
      ・主力の近衛兵は大輪田泊の宗盛本陣に、
      ・機動性に富む増派派遣部隊は生田の森に、
      ・残りのわずかな兵を雪見御所の地に。
この本陣兵の三分割によってできあがった<大輪田泊・生田の森>陣形には、
      平家にとって致命的ともいうべき欠陥がありました。
左写真:平家生田の森陣の大将・平知盛が使用していた
      と伝えられる冑(大輪田泊「歴史館」の展示品)


                               
「平野祇園神社・祇園遺跡」砦を要として、福原京本陣の
   京都寄り前面に展開される清盛「第二の防御線」は、本陣が雪見御所碑
   の地にあれば、それなりにうまく機能したかもしれませんが、
   大輪田泊に本陣がある場合には、大した意味をもちません。
   もし生田の森陣が突破されてしまうと、
   平坦にして幅広な海岸線が生田から大輪田泊まで続いていて、
   防御線としては、わずかに宇治川、湊川があるだけです。
それから、もうひとつ。大輪田泊や生田の森に多くの兵を
   とられて手薄な砦になった清盛雪見御所跡「本陣」。
   この地は生田の森や須磨や夢野の砦が健在ならば、攻略されることはなく、
   平家有力武将の女人・子どもを置いておいても大丈夫なはずでしたが…、
   清盛雪見御所跡「本陣」にも北面に死角があって、義経70騎の
   奇襲攻撃によってその弱点を突かれると、手薄な兵では護る術もなく…、
   しかも、この地が北面より短時間で攻略されてしまうと、
   大輪田泊本陣を護る直近北面の防御線は、どこにもしかれていなかったのでした。


                         
もし平家が敗れるとしたら、清盛の机上想定では、まず
    生田の森陣が破られ、その崩壊を「第二の防御線」でも
    防ぎきれずに、雪見御所本陣も粉砕されてしまう、
    という順で起こるだろうと考えられていました。
が、源平一の谷の合戦では、
    弱体・清盛雪見御所跡「本陣」の崩壊が最初に起こって、
    それが大輪田泊の宗盛本陣に波及し、次いで、
    後方(平家軍の中央ライン)の支えを失った生田の森陣(主力軍)が
    自壊・敗走するという、清盛机上想定とは逆向きの推移となりました。

清盛雪見御所本陣が最初に崩壊するという事態を、誰が予測できたでしょうか。
    清盛陣形を考案した清盛本人が、もし存命中ならば、最も驚いたことでしょう。
が、事前の想定通りに行かないのが歴史なのでしょう。

 左写真は、神戸市兵庫区・兵庫運河にかかる新川橋欄干の「源平合戦図屏風」


                             
清盛が己が亡き後の平家安泰を考えて考案した清盛陣形。
    大輪田泊本陣という違う陣形を採用しながらも、
    この清盛陣形の就縛から逃れられなかった宗盛の悲劇。
今の世でもありそうな、この親子確執のドラマは、しかし、
    「生田の森の陥穽」の底に広がる闇にかき消えて、
    今は思いうかがうよしもありません…。

生田の森は今、この地に源平の合戦などなかったかのように
    静かに美しく緑につつまれ、どの梢からか定かではないけれど、
    野鳥のさえずりの声が聞こえてきて、森を訪ねる人を 『平家物語』 の
    諸行無常の世界へと誘うのでした…。

左写真は、生田神社西北門から見た生田の森。 

次のテーマは、義経逆落しの地・一の谷がどこにあるのか、
    須磨か鵯越か、はたまた第三の地かをめぐる問題です。
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