福原京と兵庫津の道を訪ねて

  ・平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
                       義経の奇襲T / 義経の奇襲U
     (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース
  ・源平一の谷の合戦 余話
    平清盛参詣道と丹生山田の郷
    義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
            藍那〜鵯越
              写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                         須磨一ノ谷の道
              写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                          鵯越筋への道U
              写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
              写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
             一 の 谷 の 迷 路   * *

  < 新説「一の谷=烏原谷〜福原京」 >
     ・本稿では「一の谷=烏原谷〜福原京」としましたが、
         こんな勝手な命名が許されるのかどうか、以下に検討したいと思います。

  < 「一の谷はどこか」論争 >
     義経が坂落したとされる「一の谷」がどこにあるのか、現在論争中です。
        何をどう論争しているのか、整理すると…、
          ・『平家物語』『吾妻鏡』では、「義経らが駆け下った場所は鵯越」とされているにもかかわらず、
          ・『吾妻鏡』『玉葉』『平家物語』では、「義経が一ノ谷の陣を攻略した」となっています。
          ・一ノ谷(神戸市須磨区一の谷町)は、鵯越(神戸市兵庫区鵯越町)の西 8kmの地にあります。
        義経が「鵯越を下って 8km先の一ノ谷の陣を攻略する」ことが短時間に可能かどうか、
          この矛盾をどう解決するかで、論争されています。

     この問題に対する答のいくつかを紹介すると、 
        (1) 坂落しは鵯越ではなく、鉄拐山の東南の急峻な斜面(一ノ谷)で行われた。
        (2) 坂落しは鵯越で行われた。
            ・須磨区の一の谷は江戸時代に初めて現れた地名
            ・「鵯越の麓、福原の南、福原の湖、難波一の谷」(一遍『一遍上人縁起』)こそが一の谷という説
        (3) 坂落しは荒唐無稽であり、信ずるべきではないという説
            ・「坂落し」記載が当時の一級史料である『玉葉』にない
            ・「坂落し」は『平家物語』が創作した虚構
        (4) 「坂落しの場所がなんと呼ばれていたかはよく分からないけれど、
            合戦の帰趨を決める いの一番の谷だから、一の谷」という新説(珍説)

     本稿は(4)説をとりますが、なぜそうするかは後述します。
        その前に、地名の変遷(その興り廃り)の機微を理解するために、ちょっと寄り道してみましょう。

  < 俳子庵と清盛参詣道 >
     ・六甲山系には、谷が山ほど(谷が谷ほどかなぁ)あります。
     ・俳子庵の現住所は神戸市北区鈴蘭台○町ですが、
        兵庫区に属していたころの町名は「字 池の谷」でした。
     ・なぜ「池の谷」というかというと、近くにわりと大きな池があったからで、
        今はそこに高層マンションが建っていて、
        ちょっと前まで池があったことや、池の谷と呼ばれていたことを知る人は少なくなりました。

     ・俳子庵の前に立っている電柱の識別表示が、数年前にイケノタニ××番となっていましたので、
        改めて確認すると、ニシノタニ△△番に変っていました。
     ・電柱には「ナカハタヤマ」という識別表示も新たに併記されていて、
        変われば変わるものだという思いを強くしましたが、
        どう命名しようと、まあ、電力会社や電話会社の権限内なのでしょう。

     ・市街化が進んで、「ナカハタヤマ」の頂きがどこにあるのか正確なことはわからなくなってしまいましたが、
        俳子庵の近くに「どんぐりやま」というのもありました。
        「ナカハタヤマ」の峰山のひとつで、
        どんぐりが採れただけでなく、謎めいた秘密の基地などもある山でしたが、
        今は家が建ち並んでいて、「どんぐりやま」の面影はどこにもありませんので、
        「どんぐりやまはどこにありますか?」と尋ねても、誰も答えられないでしょう。
        というよりも、「どんぐりやま」というのは俳子庵の住人のみが知る山の名で、
        愚息が子どものころ、「どんぐりやまに遊びに行く」と言っていたから、
        そう呼ぶようになっただけのことで、これはまあ、言ってみれば、わが家族の勝手でしょう。

     ・俳子庵のある地の地名ひとつを例にとってみても、
        地名は不変なるものというよりも、その時々の様々な事情によって、いろいろに変遷する、
        ともいえるのではないでしょうか。 

                 (補)それから、本題とは少しはずれておりますが…、
                    俳子庵の所在地に関連したことを調べていたら、
                    なんとまあ、俳子庵のすぐ傍を清盛参詣道が通っておりました !
                    ちょっと因縁めいた話なので、あえて付記することにしました。

  < 一の谷の由来 >
     一の谷がどうして一の谷と呼ばれるようになったのか。
        本稿の推理は以下の通りです(あくまでも推理の域をでませんが…)。

     ・一の谷の「一」に注目してみましょう。
        広辞苑(旧版)によると、<名>(1) 数の名。ひとつ。…
                         (2) 最もすぐれたこと。また、そのもの。第一。首位。最上。一等。最善。
                         (3) 最初。…
                       <接頭>(1) 或る語に冠して、確定しない或事・或物を指す。「一日」。…

     ・『平家物語』の作者・語り部になって考えてみましょう。
        「で、その義経が坂落ししたのは、なんという谷 ?」
           そう聞かれて、語り部は困りました。
           合戦の地には行ったことがないので、谷の名など知りようがありません。
           谷は山があればいくらでもあって、名のない谷だったかも知れません。
        「それは、う〜む、天下の義経様が坂落ししたくらいの谷だから、
           決まっているでしょう、そうです、いの一番の谷、一の谷です。
           この一の谷を坂落ししたから、義経様は勝った、それに違いありません」
        ちょっと落語の世界に迷いこんでしまいました。

     ・迷走ついでに、創作民話『いちのたに』というのはどうでしょう。

           むかし むかし、鳥原の谷(とりはらのたに)と いう ところが ありました。
           きれいな 鳥(とり)が いっぱい くる 谷(たに)で、
           むらびと たち は、とても よろこんで いました。

           ある とき、九郎 義経(くろう よしつね)と いう さむらい が やってきて、
           うつくしい 鳥(とり)の はね を 一本(いっぽん) ぬいて もって いって しまいました。
           鳥(とり)は たちまち くろい 烏(からす)に かわって、
           きみ の わるい こえ で、
           「カァ カァ、 はね 一本(いっぽん) かえせ」と なき ました。

           谷(たに)に 烏(からす)が くる ように なると、
           むら に よくない こと が つぎつぎと おこりました。

           むらびと たち は 
           烏(からす)の たたり と おそれました。
           この とき から 
           谷(たに)は 烏原谷(からすはらたに)と よばれる ように なりましたとさ。

        鳥原の谷(とりはらのたに)から一の谷(いちのたに)を引くと、
           烏原(からすはら)になるというのは、できすぎでしょうか。
           でも、後世の人は誰も、烏原(からすはら)に
           一の谷(いちのたに)が隠されていることに気づいていないのですから、
           こんな民話があるといいのですが…。

  < 一の谷の迷路を抜けて >
     ・源平一の谷の合戦時には、「一の谷」と呼ばれていた谷は存在しませんでした。
         義経坂落しの地が「一の谷」と呼ばれるようになったのは、『平家物語』以後のことで、
         『平家物語』の作者を含めて、後世の人は誰も、その地を特定できていません。

         「一の谷」の地名から探しても、その地にたどりつけない以上、
         地名的観点からすれば、「一の谷」はどこにあってもよく、
         「一の谷=烏原谷〜福原京」説であっても、
         他の説と五十歩百歩の差しかないのではないか、と思います。

             なお、須磨定説に登場する地名について付記すると、
             須磨にある「一ノ谷」、その直下にある「安徳天皇内裏跡伝説地」、
             「一ノ谷」の起点とされる鉄拐山の近くにある須磨アルプスの「馬の背」などの地名は、
             安徳天皇が半年を過ごした「本皇居の平野殿」のあった福原京の地(「堂仏」)に似せて
             江戸時代以降に命名され、創作された可能性が強く、
             源平一の谷の合戦時に本当に歴史的に存在していたのかどうか、
             再検証する必要があるのではないか、と思うのですが…。

         いずれにしましても、
         義経の一の谷坂落しはあったのか、なかったのか、
         あったとすれば、一の谷ははどこにあったのかの問題は、
         現地名を疑いなきものとして推論するのではなく、
         源平一の谷の合戦全体の位置づけのなかで総合的に考察して答をださなければならない、
          と思います。

  < まとめ 奇襲攻撃としての「義経坂落し」 >                                      *
     ・義経の一の谷坂落としは、織田信長の桶狭間の戦いとともに、日本の代表的な奇襲戦とされています。
              (補)日本三大奇襲戦のひとつとされる
                 1941年12月8日未明に日本海軍が行った真珠湾攻撃は、
                 事前に情報漏れしていて、敵側に政治的に利用され、
                 敵側が意図する「宣戦布告なき開戦」という結果を生んだだけなので、
                 攻撃する側にとっては「奇襲攻撃」であっても、
                 また、敵側に一定の軍事的打撃を与えることができたとしても、
                 日本の代表的な奇襲戦であったとするのには無理がある、と思います。
     ・奇襲とは、『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、
       「奇襲(きしゅう, surprise)は、敵の予期しない時期・場所・方法により組織的な攻撃を
         加えることにより、敵を混乱させて反撃の猶予を与えない攻撃方法をいう。
         敵の混乱に乗じて、士気を減衰させ、より大きな損害を与えることが期待できる」とあります。
     ・奇襲とは、ひとことで言えば、敵の不意をつく攻撃。
         開戦 2時間後に、背後に迂回して須磨平忠度軍の後詰めを攻撃したり、
         夢野<山の手>軍の目の前を通って宗盛半方円陣のど真ん中に位置する会下山の陣を攻撃したりするのは、
         定石的・正攻法的戦法であって、奇襲とはいえないのではないでしょうか。
     ・「開戦 2時間後の同一戦場地内での奇襲」というのは自家撞着で、
         敵の不意をつく攻撃は、もうほとんど不可能に近いですが、
         相手側が敵に攻めて来られるはずがないと油断していたなら、ありえないわけではありません。
     ・源平一の谷の合戦初期において、
         平家が「すぐには攻めて来られるはずがない」と思っていた所が2ヶ所ありました。
     ・ひとつは、宗盛本陣が置かれていた大輪田泊。
         宗盛陣形は全方位からの敵奇襲に対処する防御的な陣形(海を背にした半方円の陣)なので、
         いずれかの防御線(前線)が破られないかぎり、大輪田泊が攻撃を受けることはありません。
         生田、須磨、鵯越から、かなり離れた位置にある、この大輪田泊に、
         開戦 2時間後に突如、平家の前衛部隊が対応できないほどのスピードで迫り、
         宗盛本陣を直撃・急襲できれば、敵の不意をつく奇襲が可能ということになります。
         たとえば桶狭間の戦いのように激しい雷雨だったとか、あるいはまた、
         濃い霧の中、船を使って海から攻撃するとか、奇襲の方法はいろいろあったと思いますが、
         しかし、義経70騎が急坂を下って、坂から 2.5km(鵯越筋)ないしは7km(須磨)も離れた大輪田泊に
         進撃するというのは、開戦前の暗がりの中ならともかく、朝方の平家陣形が乱れてもいない開戦初期
         (午前8時)には、敵の不意をつく奇襲たりえません。
     ・もうひとつは、福原京跡地(現・雪御所町)。
         清盛陣形では本陣が置かれる地となっていて、最も堅固な場所ですが、
         宗盛陣形では、この地に配備されるはずの近衛兵は大輪田泊にいて、
         この地は、平家有力武将につながりのある女・子どもと、それを護る雑兵のみのいる空の砦でした。
         宗盛は清盛陣形のことをよく理解できていなかったので、
         福原京跡砦が無防備になっていたことに気がつきませんでしたが、
         義経は清盛陣形のことを熟知していましたので、
         福原京跡砦の虚をつく奇襲攻撃を、すぐに思いつくことができたのでした。
     ・義経が「一の谷坂落し」の難行をおこなったのは、敵の不意をつく奇襲攻撃を仕掛けるがためでした。
         そして、開戦2時間後に義経が到達した先は、雪見御所・福原京跡の北面の坂しかありえませんでした。

  < まとめ 新説「義経坂落しコース」 >
     ・新説「義経 70騎の坂落しコース」を要約すると、以下のようになります(地名表示は現在名)。
         鵯越筋〜6:00 ひよどり展望公園(標高175m)〜鵯越筋〜兵庫区里山町の雑木林(標高135m)
         〜地蔵前広場(標高110m)〜烏原貯水池・烏原谷(標高100m)〜7:00 菊水山の南西裾野山中(標高140m)
         〜関ヶ谷(標高120m)〜天王町4(標高90m)〜豊国稲荷神社(標高75m)
         〜山王町(標高40m)〜8:00 雪御所町(標高30m)。

             関ヶ谷を経由しないルートの場合は、
                烏原貯水池・烏原谷(標高100m)〜天王町2の山麓リボンの道標識(標高60m)を北上
                〜天王町4(標高90m)〜豊国稲荷神社(標高75m) となります。
             こちらの烏原川沿いに清盛参詣道を下り、烏原谷口の平家砦手前で天王町4に
             迂回する第二ルートの方が難路がなくて進軍しやすいですが、
             本稿があえて関ヶ谷ルートを採用したのは、関ヶ谷が「重忠が馬を担ぎ下った」地ではないか、
             と思うからです。

     ・烏原貯水池・烏原谷は、福原京側から見たとき、
         その形状が「口狭くして奥広し」となっており、
         その位置取りも、鵯越の手前にあって、「一ノ谷背後の鵯越」という要件を満たしています。
         また清盛雪見御所邸を基点にして見るとき、烏原谷は、数ある谷のなかで、一番間近にあり、
         清盛が丹生神社参詣に使う一番重要な谷でもあって、まさに「一の谷」そのものです。

     ・義経坂落しの場は、豊国稲荷神社(神戸市兵庫区平野獺谷・標高75m)の本殿上から大鳥居にかけての坂。
         この地にある豊国稲荷神社の由来については、
           ・豊国稲荷神社は豊臣秀吉公を神格化した豊国大神を祀る神社なので、
              できたのは、源平の世のはるか後の世のこと。
           ・神戸の空の下で。〜近畿の史跡めぐり〜 >豊国稲荷神社によると、
            最初は兵庫城の中(現在の神戸中央卸売市場付近)に造られていましたが、
            明治初年の神仏分離策により、1874年(明治 7年)にこの地に移設されました 。
            なぜ、この地が移設先に選ばれたのかについては、
            「1596(慶長元)年には豊臣秀吉公がこの地の住人・正直屋寿閑に対して
            湯坪取り立ての朱印状を与えた」という史実があって、
            豊国稲荷神社は「奥平野の温泉の守り神」として
            この地に鎮座することになったと伝えられていて…、
            兵庫県庁に近くて、豊臣秀吉公ゆかりの地だったからと推定されており、
            「国家騒擾を鎮め、国難厄除を司る神社として創祀」されたとするような類の、
            本稿にとって都合のよい由来話はないようです。
         ・ 清盛が晩年10年を過ごしたのに、その痕跡すらほとんどないような歴史の空白多き地ゆえ、
            後世の人が義経坂落しの坂と知らずに、この地に豊国稲荷神社を移設した
            と考えるのが妥当なのでしょうが、
         ・義経の坂落しによって平家滅亡という「国家騒擾」が始まったわけで、
            義経が坂落しをした地に、「国家騒擾を鎮め、国難厄除を司る神社」として
            豊国稲荷神社を創祀するのは、まことに理にかなったことであり、
            単なる偶然ではなかったのではないか、という思いは捨てがたいです。

      この地を義経坂落しの場所とする理由については、
        ・豊国稲荷神社の本殿が、参拝するには極めて不便な、道なきに等しい道を行った高所にあり、
            義経坂落しの坂の 3要件
              「鹿道と平家が布陣する馬の背(註2)とは僅か2〜300mの距離」
              「鹿道となる崖は落差45m」
              「勾配の急なところは35度」 をほぼ満たしています。
            またこの坂は、花崗岩を多く含んだ六甲山系のひとつ・菊水山の南裾野にあって、
            山肌はかなり風化が進んでいて、「小石まじりのすなごなれば」の要件も満たしている。
        ・更には、この坂の直下には、かつて安徳天皇が半年を過ごした「本皇居の平野殿」があり、
            その南隣(坂下から約300mの地)には清盛の雪見御所があって、
            この地は清盛政権中枢の地でしたが、
            戦時には平家本陣の置かれる地となり、軍事的にも最重要地でした。
            この地は、清盛戦略の要をなす地であり、
            源氏に攻略されにくい、平家にとって最も安全度の高い、平家の聖地でした。
        ・この地が源氏にとっていかなる意味合いを持っていたかとういうと、
            範頼・義経軍が京都を出立するとき、緒戦の地として、
            範頼主力軍が生田川を、義経搦手軍が須磨をめざすという違いがあったとはいえ、
              その最終到達目標地は、両軍ともこの福原京跡地以外にはありませんでした。
              この地を制圧するということは、源氏の勝利が確定するということでした。
              が、開戦当初、宗盛本陣が大輪田泊に置かれたために、この地の意味合いは激変しました。
          ・この地は、平家最強最後の砦ではなくなり、義経が奇襲を仕掛けるうる地となりました。
              (1) 平家が西国に逃れる際に平家自らの手で焼き払われた「本皇居の平野殿」や清盛雪見御所。
                この地には平家再起後1ヶ月で建設することができた簡易家屋があるのみで、
                かつての清盛砦の面影はなかった。
              (2) 宗盛が大輪田泊に本陣をかまえたことによって、この地に軍事的空白が生じていた。
              (3) 平家は、生田も須磨も落ちていない開戦時に源氏がこの地を攻めることは不可能と油断し、
                この地に有力武将の妻子を集め、彼女たちを警護する若干の老兵を配して、
                それで十分と思っていた。
              (4) 須磨攻めを行なうはずだった義経・安田・多田軍が、藍那相談が辻より転進して、鵯越に進出する
                ことによって、この地は宗盛・半方円の陣の正面中央の最前線に位置することとなった。
              (5) 源氏がこの地を攻略できれば、平家に軍事的ダメージだけでなく、
                精神的ダメージをも与えることができる。
              (6) この地の北側斜面(豊国稲荷神社の坂)には、平家が気づいていない軍事的死角があった。
              (7) 義経精鋭 70騎を率いて豊国稲荷神社の坂を一気にくだって奇襲を仕掛ければ、
                夢野<山の手>軍が駆けつける前に、この地を攻略できる。
              (8) 赤旗を放り捨て、2.5km先にある大輪田泊めざして逃げ惑う平家。
                福原京跡砦にあがる黒煙を背にして、それを猛追する義経主従70騎。
                大輪田泊の宗盛本陣は、これを見て、源氏の大軍が押し寄せてきたと錯覚、
                戦う間もなく、船5艘へと逃げこんだのでした。
              (9) 地の利を知り尽し、兵の数でも源氏を圧倒していた平家軍が総崩れとなり、
                源氏軍の勝利が確定したのは、義経 70騎坂落し奇襲開始より 2時間後のこと。
                源平一大決戦の決着がかくも短時間についた、その起点となりうる地は、
                この福原京跡地以外には存在しませんでした。
              こうして、源氏にとって、この地は平家攻略最終目標地ではなく、
                緒戦(義経坂落し奇襲)の最重要地となり、その後の戦の帰趨を決める地となったのでした。

        「須磨一ノ谷」説、「鵯越筋〜会下山」説のいずれもが、
             義経坂落しの坂を、源平一の谷合戦全体のなかで位置づけるのに失敗していて、
             源平一の谷合戦がどのような戦であったのか説明できなくなっている(註1)のに対して、
             豊国稲荷神社の坂は、
             清盛戦略の要の地(清盛の雪見御所邸跡地)の開戦時の軍事的空白を衝く義経奇襲の地として最適であり、
             宗盛本陣の置かれた大輪田泊にも近くて、奇襲後の軍事的展開も容易だった、
             という軍事的整合性を有している唯一の坂でした !!
                     (註1)「須磨一ノ谷」説の問題点につきましては、こちら
                         「鵯越筋〜会下山」説の問題点につきましては、こちら
                         ご参照ください。

        この豊国稲荷神社の坂を義経坂落しの地と特定しても、なんらの不都合も生じません。
             義経坂落しを論ずるもろもろの「歴史家」が矛盾する関連歴史書記述の辻褄あわせのみに明け暮れて、
             その説の実証的検分を怠り、その結果、人間技ではできもしない事を義経はやり遂げたと主張する
             などの致命的な欠陥を有しているのに比して、
             「歴史書」の勉強をしたことのない歴史オンチが、現場百回、徹底した現地調査を行ない、
             これなら歴史的・現実的に可能だったと提案する新説「義経坂落し」論の、
             この「なんらの不都合も生じない」も、あながち捨てたものではないと思うのですが…。

           (註2)「平家が布陣する馬の背」とはどこかについては、
              ・現在の地名でさがすと、須磨アルプスに「馬の背」というのがあります。
                 横尾山を東に行って東山に至る途中の岩尾根が「馬の背」のようになっているので、
                 そう呼ぶようですが、歩くのも難儀な鎖場があるため、
                 ここを「平家が布陣する馬の背」とする人はいないようです。
              ・石井川と天王谷川に挟まれた雪御所町は、地形的には、まさに「馬の背」そのものです。
                 東と西が川で、いずれの川底から見ても雪御所町は高台になっていて、
                  まるで馬の脇腹下から馬の背上を見上げるかのようになっています。
                  雪御所町の高台の中央部が少しくぼんでいる所まで、馬の背に似ています。
                 馬の頭の方から「馬の背」を見下ろす構図で考えてみても、
                  鹿道(義経坂落しの坂)が馬の首筋、雪御所町が馬の背で、
                  荒田八幡神社あたりが馬の尻となって、
                  雪御所町がやはり馬の背です(下の写真をご参照ください)。
              ・「雪御所町=馬の背」以外の第三の「馬の背」をご存知の方があれば教えてください。
                 (鳥取砂丘の馬の背などはダメです。義経坂落しの坂が特定できる馬の背限定です)

   

        ・平野展望公園(神戸市兵庫区平野町350-1)の高台から見おろした雪御所町。
               左寄り(東側)をS字に流れているのが天王谷川、その先に広がる緑が雪御所町公園。
               雪御所町公園の手前にある3階建ての横長の建物が湊山小学校で、
                  この近くに平清盛の邸宅「雪見御所」があったとされています。
               また、安徳天皇が半年を過ごしたとされる「本皇居の平野殿」は、
                  そのすぐ北側(写真手前)にあって、
                  この地は古くは「堂仏」(天子がお住みになっていた所)といわれていました。
               それから、写真右下から雪御所町公園へ向けて石井川が流れていて、
               この石井川と天王谷川とで縁取られたダルマ型の地が福原京(中枢)の地で、
                  その形に注目すると、「馬の背」に載せられた鞍に見えます。

      ・義経が「鹿道」の上から、これとほぼ同じアングルで、この「平家布陣」地を見たとするならば、
             義経はやはり「平家が布陣する馬の背」に向けて坂落ししたと表現するほかありません。
      ・なお、豊国稲荷神社(神戸市兵庫区平野獺谷401番)の坂は、
             この写真の撮影地から約100mほど西寄り(写真向かって右の埒外)にあります。
             「上写真の右下に写っている木立が左下にある構図」の写真を思い描けば、
             豊国稲荷神社の坂から雪御所町を見下ろす情景となります。

  < 「義経坂落としの謎解き」の旅を終えて >
     ・義経坂落しの謎を解く旅が終わりました。
         源平一の谷の合戦のことが書かれた書に可能なかぎり目を通し、
         源平一の谷の合戦の現場となったであろう所をくまなく、何度も歩いて、
         清盛ならどう考えただろうか、義経ならどう行動しただろうかに思いをめぐらせる
         義経坂落し謎解きの旅…。
         思いおこせば、一の谷の迷路の先もまた迷路でした。
         試行錯誤を繰り返して、何度も振り出しに戻って…、
         そして、やっとたどり着いたゴールが、「豊国稲荷神社の坂」でした。
         見たことも、聞いたこともなかった「豊国稲荷神社の坂」、
         こんな所にゴールがあろうとは、予測だにしていませんでした。
         が、長い長い旅のゴールは、この地以外にはありえませんでした。
         もし、この地が義経坂落しの地でないなら、
         義経坂落しそのものがなかった、『平家物語』の作者の創作だった、
         というのが、「義経坂落し謎解き」の旅の結論となりました。

                      おぼつかな 年経るごとの 捩の花
                      青梅雨や 義経駈けし 鹿の道
                      荒梅雨や 豊国稲荷 神社坂     俳子

  平清盛は武士(もののふ)なので、彼の足跡をたどる旅が軍事面に偏るのは避けがたいですが、
     平清盛は大輪田泊の造営や交易にも尽力した人でもありました。
     そうした平清盛の夢とロマンと神戸について、以下に論及の予定です。

     
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