福原京と兵庫津の道を訪ねて

  ・平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
                       義経の奇襲T / 義経の奇襲U
     (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース
  ・源平一の谷の合戦 余話
    平清盛参詣道と丹生山田の郷
    義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
            藍那〜鵯越
              写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                         須磨一ノ谷の道
              写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                          鵯越筋への道U
              写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
              写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
    源義経進軍路の謎 義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷  *

   < 義経進軍路の概略 >
       矢合わせは寿永3年(1184年)2月7日午前6時予定。
         開戦直前の義経軍の行動を整理すると、
         ・後白河法王から源頼朝に下った平家追討の命を受けて
           範頼と義経が二手に分かれて京都から出発したのは2月4日 
         ・2月5日夜、三草山の戦い
         ・2月6日、三草山〜藍那・相談ヶ辻〜鵯越
         ・2月7日未明には、須磨一の谷か鵯越筋

       義経が2月4日に京都を発って、丹波路を西進、
         三草山(播磨国)で平資盛・有盛軍を撃破した後、
         三木、藍那を経て、2月6日の夜に鵯越に露営したとすると、
         義経軍は土地勘のない丹波・西摂津の山中(約120km〜150km)を3日間で走破して、
         翌朝未明には平家本隊との開戦を迎えたことになります。
       義経軍がこの超強行軍を見事にこなすことは可能だったかどうか、
         大いなる謎として、後世の歴史家諸氏を悩ませています(註1)。

   < 義経進軍路の謎解き >
       義経強行軍の不合理を解決する方法としては、
       ・ 時間軸をずらす
           鎌倉軍の京都の発向は、『玉葉』によると 1月26日、『吾妻鏡』は 1月29日、『平家物語』では2月4日
           とあることから、『玉葉』や『吾妻鏡』の説を採用すれば、超強行軍でなくなります。
           三草山の戦いも、2月5日の夜ではなく、2月4日の夜に行われたと変更すれば、超強行軍でなくなります。
           この方法はすこぶる便利ですが、
           批判されると、その都度、時間軸をずらしていくのは、いかがなものかと存じます。
             (通説に定見がないのは、批判する側としても、
              批判対象が消滅してどこにも存在しなくなるわけで、まことに由々しきことでございます)
       ・ ルートを変更する
           三草山は能勢町と猪名川町の境にもあるので、
           この地で三草山の戦いが行われたとすれば、超強行軍でなくなります。
       ・ 事例を削る
           たとえば、義経軍は三草山の戦いに参戦していなかったとすれば、超強行軍でなくなります。

   < 三草山の戦い >
       ・三草山の戦いは源平一ノ谷の合戦の前哨戦として戦われた
       ・播磨国・三草山付近一帯は開戦当時、平家の荘園地
       ・一ノ谷を目指して丹波路を進軍する義経を迎え撃つため、
           平資盛・有盛・師盛・忠房らが三草山の西に布陣
       ・義経軍は2月5日夜、民家に火を放って進撃
       ・平家軍は不意をつかれて敗退
       ・平資盛・有盛は加古川沿いに高砂まで逃れ、海路で屋島へ、
        師盛は福原の平家軍本隊へ戻る
       ・敗走する平家軍を土肥実平軍が追撃

   < 珍説「三草山の戦いは戦後処理戦」 >
       ・三草山の戦いは源平一ノ谷の合戦の前哨戦ではなくて、戦後処理戦だった、
          という説をとなえたら、きっと歴史家に笑われるでしょう。
       ・しかし、情報精度の高い京都情報・義経京都出立日ですら、
          1月26日、1月29日、2月4日の 3説がある世界ですから、
          嘘を承知でちょっと寄り道をしてみましょう。

       ・三草山の戦いに敗れた資盛・有盛は高砂より海路で屋島に渡ったという史実が唯一の頼り。
       ・弟の師盛(14歳)が福原に逃げることができたのに、資盛・有盛はなぜそうしなかったのでしょう。
       ・答えは、「平家敗れて福原に源氏あり、資盛・有盛は加古川沿いに逃れて、海路で屋島に逃げるほかなかった」
             「弟の師盛は一の谷の合戦ですでに死亡していて、三草山には最初からいなかった」

       ・平家に味方した唐櫃の多聞寺は、開戦前か開戦後かに多田源氏などによって焼きはらわれ、寺領を没収されました。
       ・近隣の平家の荘園地は、一の谷の合戦後に源氏にことごとく没収されたことでしょう。
       ・資盛・有盛は三草山に多田源氏軍が進出してくるやいなや、戦わずして逃走する他なかった…。 

   < 義経進軍路は「開けてびっくり玉手箱」 >
       ・開戦前に義経はどこをどう進軍したのかを検証しようとするとき、
          義経軍の超人的な強行軍ぶりの壁に突き当たります。
       ・これは、後世の人がいろいろな思惑から「義経進軍路玉手箱」に余計なものを
          詰めこみすぎたことから起こった混乱なのではないでしょうか。
       ・本稿は、この玉手箱から試みに「三草山の戦い」という事項を取り除いてみました。

   < シンプル義経進軍路 >
       ・範頼と義経が京都を出発したのはいつだったかについては、
          後白河法王から源頼朝に平宗盛追討の宣旨が下ったのは1月26日。
          源頼朝はこの時、鎌倉にいて、この宣旨を承るのは後日。
             頼朝は、宣旨を発した法王への返礼の儀をすませずに、平宗盛追討の軍を発進できず、
             範頼と義経は、鎌倉の判断を仰がずに追討の軍を動かすことができません。
             鎌倉と京都現地軍との間に、大まかな打ち合わせが事前にできていたとしても、
             1月26日の京都出立は考えにくいのではないでしょうか。
          源頼朝は自ら上洛しないまでも、最低限、自筆の返書を後白河法王に届けなければなりませんでした。
                (理由:このような儀礼を欠落させたら、天皇制の制度自体の存立が危うくなります)
            当時の通信・交通手段で、情報が京都と鎌倉を往復するのに、どれくらいの日時が必要だったか、
            1月29日に範頼と義経が京都を出立したとすると、源氏は相当手回しが良かったことになります。
          それから、もうひとつ、1月26日か1月29日に京都を出発すると、
            三草山の戦いをする義経搦手軍には都合がいいけれど、
            2月5日の夕方に伊丹の昆陽を出発して生田の森をめざすことになる範頼主力軍は、
            昆陽に着くまでの9日間か6日間の長きを、どこでどう過ごしたのか、の疑問が残ることになります。
            範頼軍が、人の行き来が激しい西国街道筋・約70〜80kmを、
            1日 10kmの平均速度で、ゆっくり、ゆっくり進軍すれば、
            それを察知した平家軍は、それだけ強固に防備を固めることができるわけで、
            このリスクをおかしてまでして遅行する事情が範頼軍にあったかどうか、
            明解なる説明が必要となります。

       ・本稿は、「2月4日に京都を出発、2月7日未明に一の谷の地に立った」という説に賛同して、
          義経は最小限、何をしなければならなかったかを考えてみました。

       ・義経は戦に勝たなければなりません。三草山に資盛・有盛の陣があると、
          平家軍本隊と対峙したとき、背後をつかれる危険性があるかのかどうか。
          あれば、事前に取り除く必要がありますし、
          なければ、わざわざ播磨の国まで遠回りする必要はありません。
       ・義経は2月7日未明には本戦場にいなければなりません。 
          遠回りして三草山の戦いにてこずれば、失着となります。
             通説によれば、三草山の戦いは、その直前の軍議次第では、
             2月5日の夜ではなく、翌日に開戦されていたわけで、
             こんな悠長な三草山の戦いをしていたら、義経軍は間違いなく失着となります。
       ・義経は進軍しながら陣容を整える必要がありました。
          義経軍は関東源氏の単独軍ではなく、地元・摂津国の多田源氏軍(実働部隊)との混成軍でした。 
          義経軍全軍が京都で陣を整えて出立したと考えるより、
          どこかで多田軍兵などを吸収しながら進軍したと考えた方がよさそうです。

       ・本稿は、資盛・有盛軍は本戦場より離れすぎた弱小軍なので憂いなし、
             義経軍は丹波路を行かず、範頼軍と最初は行動をともにし、
             西国街道を池田(標高70m)で分岐して西進、伊丹・宝塚あたりで多田軍と合流したのち、
             米谷(宝塚市)を経て湯山(有馬・標高384m)に進軍した、と推定しました。
             (義経進軍路玉手箱にもうひとつ余計なものを入れてしまっただけかのしれませんが)

   < 義経軍と丹生山田の郷 >
       ・湯山(有馬)を過ぎたあたりから、平家の実効支配圏。
            これから先はなにが起こるかわかりません。
       ・義経軍は土肥軍・多田軍を含めた全軍の進軍を開始します。
            義経軍の兵の大半をしめる多田源氏・地元軍は、
            失地回復、領地拡大の好機到来なので、士気が高いようです。
       ・義経軍は開戦直近の小競り合いは回避したかったでしょうから、
            平家に味方した多聞寺のある唐櫃(標高316m)は迂回する必要がありました(註2)。
            現在の岡場方面から丹生山系に入って尾根道を行き、
            金剛童子山(565m)を過ぎてより下山、東下(標高166m)に至り、
            道案内人(後の鷲尾三郎義久)を得ます。
            義経軍は総勢二千余騎はいたのではないでしょうか、
            なんらの手出しもできない丹生山&坂本を右後方に見ながら、藍那に進軍しました。

       ・丹生山田の郷の義経軍への思いは複雑だっただろうと思います。
            義経軍の道案内人として猟師の子せがれひとり(註3)を差し出した事実が物語るのは、
            平家にも源氏にも付きたくない、後でどちらからも咎めだてされたくない、
            という消極的な対応しかとりようがなかった ということだろうかと思います。
            (なお、丹生山田の郷は、平清盛が東大寺から山田荘を譲り受けて領主となる以前に、
             保安4年(1123年)より源頼朝の祖父・源為義の所領だったことがあり、
             源義経はその縁を頼って、この地に進軍してきたとする異説があって、
             この説をとれば、本稿の推論とは違うストーリーが考えられます。
             丹生山田の郷にとって「源為義の所領だった」過去の遺産が重要だったか、
             それとも直近の清盛統治の影響の方が重いウエートをしめていたのか、によって、
             丹生山田の郷の義経進路軍への対応の仕方も変っただろう と思われますが、
             この問題については、別ページ「清盛の墓を捜す旅」にて改めて論じます)
       ・戦国時代末期、羽柴秀吉軍と三木城主別所氏を盟主とする播州大連合とが2年近く戦った
            三木合戦(1578〜1580年)に際しては、丹生山明要寺の僧兵、淡河領民、山田の一向宗徒たちは、
            兵糧攻めにあう三木城への食糧補給を行い続けて、最後には秀吉軍の焼き討ちにあいました。
       ・丹生山田の郷は三木城とは地縁的なつながりが強かったけれど、
            平家・福原京とは、それほどでもなかったのでしょう、
            平家より古い時代の繋がりしかない源氏軍がやって来たとき、抵抗らしい抵抗をしませんでした。
            清盛が漠然と感じていた危惧、恐れていたことが現実のものとなりました。

              (註1)・兵をすばやく移動させた事例として著名な秀吉の中国大返しと比較してみましょう。
                     本能寺の変の後、明智光秀を討つために、
                     備中高松城(岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を、
                     10日間で踏破した秀吉の中国大返しは、日本史上屈指の大強行軍として知られています。
                  ・秀吉は兵站部隊を含む兵2万余を移動させたので、義経軍ほど簡単ではなかったけれど、
                     移動路は400年後の山陽道で、船坂峠以外は平坦路。これを一日平均 20kmで走破しました。
                  ・義経軍は京都から丹波経由で須磨までの約120km〜150kmを
                     3日間で走破したので、一日平均 40〜50km。
                  ・秀吉が信長配下にあって迅速大強行軍に長けていたのに対して、義経は初陣。
                  ・義経と秀吉の比較は、その条件がいろいろと違うので、簡単ではありませんが、
                     まず、その一日平均走破距離に注目してみましょう。
                  ・秀吉は、姫路に至る最初の約70kmを2日間で走破したりもしましたが、西宮で兵を休めたり、
                     光秀に味方しそうな武将に「信長は生きているというウソの手紙」を出したりもして、
                     一日平均にすると約 20kmでした。
                  ・大阪冬の陣で、徳川秀忠軍が東京〜京都間468kmを17日間で踏破(一日27km)した際には、
                     兵がついてこれなかったことを考えあわせると、
                     秀吉の一日平均約 20kmは、日本史上屈指の大強行軍だったと思われます。
                  ・義経軍は、丹波・西摂津の山中(約120km〜150km)を3日間で走破。
                     その途中で三草山の戦いを敢行し、高砂に逃げる敗兵を追尾したり、
                     土地勘のない淡河の山中で迷ったりしながら、
                     強行軍直後の早朝には、休む間もなく平家との天下分け目の戦に望むので、
                     一日平均 40〜50kmの強行軍は驚異的です。
                  ・と言うよりも、これはもう不可能に近く、この義経強行軍は、
                     後世(おそらくは三木合戦とその後の一向宗徒弾圧以後)の、
                     軍事のイロハも知らない、曲学阿世の徒による捏造であって、
                     義経進軍路は、丹波経由・須磨行きの長路ではなく、
                     もっと行程の短い、唐櫃・多聞寺経由だったのではないか、と推論するしかないのでした。

              (註3)・時は2月5日夜、平家「唐櫃多聞寺」兵が義経進路軍を阻止せんと
                     攻撃をしかけるも、あえなく撃退されて、唐櫃多聞寺に逃げ込み、
                     焼き討ちにあう、というストーリーなのですが、
                     「唐櫃・多聞寺の焼き討ちは源平一の谷の合戦の前哨戦」だったという
                     珍説をとなえたら、また歴史家に笑われるでしょうか。
                  ・源平一の谷の合戦直後に、戦地直近の平家拠点として明白な唐櫃多聞寺に、
                     平家残党が隠れ住んでいたでしょうか。
                     もし仮に、源平一の谷の合戦後に、平家につながりがある者が
                     唐櫃多聞寺に隠れ住んでいたとしても、
                     多田源氏の兵がやってきたら、焼き討ちのめにあうほど戦うでしょうか。
                     逃げ出すか、あるいは平家とは無関係面をして
                     源氏に恭順の意を表するか、しただろうと思います。
                  ・唐櫃・多聞寺には、大勢が決した合戦後に多田源氏と戦う意味がありません。
                     唐櫃・多聞寺が戦う意味があったのは、平家が健在だった開戦の前だけです。
                  ・唐櫃・多聞寺の焼き討ちは、戦後処理戦ではなく前哨戦だった、
                     義経進路軍は2月5日夜、唐櫃の地にいた、という珍説…。
                  ・この説の良いところは、
                     義経軍が湯山(標高384m)から山田荘・東下(標高166m)に進軍するのに、
                     時間のかかる丹生山系(金剛童子山の標高は565m)の尾根道難路ではなくて、
                     湯山(標高384m)〜唐櫃(標高318m)〜箕谷(標高227m)の谷沿い
                     (現・有馬街道)を行った、とすることができるだけでなく、
                     そして、なによりも、翌2月6日に敵前近くに進攻する義経軍の
                     「超強行軍」が解消される、という点にあります。
                  ・2月7日未明に天下分け目の合戦をしかける義経軍が
                     合戦前日の2月6日をどう過ごすかは極めて重要で、
                     単に敵陣に迫れば、それでいいというわけではなく、
                     進軍の兵の疲弊を取り除いたり、兵糧を確保したり、
                     敵陣情報を収集して作戦会議を開いたり…、すべきことは数多くあって、
                     三草山の敗兵を追っかけまわしたり、隠密行動とか称して
                     土地勘のない山中を長時間、猛スピードで駆け抜けたりして…、
                     余計なことをすれば、戦う前に疲労困憊して、負け戦になってしまうわけで、
                     「義経進路軍が2月5日夜、唐櫃の地にいた」説は捨てがたいのですが、
                     「唐櫃・多聞寺の焼き討ち」がいつ、どのように行われたのか定かではなく、
                     本稿はこの珍説を裏付けるに足る史実も、否定できる史実も確認できていません。

               (註3)・「猟師の子せがれひとり」というのは差別的表現かと思いますが、
                     鷲尾三郎義久氏は名家・鷲尾家の開祖的人物なので、許してもらえるかと存じます。
                     義久という名は、源平一の谷の合戦の武勲により、義経から一字をもらってつけました。
                     鷲尾三郎義久氏は、この合戦により個人的は栄誉を得ただけでなく、
                     丹生山田の郷が合戦の前と後の二度の苦境を切り抜けることに貢献しました。
                  ・義久少年がいたから、丹生山田の郷は唐櫃・多聞寺にならずにすみました。
                     比喩的にいえば、丹生山田の郷は、清盛の丁石があるにもかかわらず、
                     後に弁慶の釣鐘(安養寺)を所有できる郷に、スムーズに移行できたのでした。
                  ・義久氏以降、鷲尾家は栄え、白川、多井畑にも同名の名家ができました。
                     が、これは後の時代のこと。
                  ・義久少年は、白川や多井畑に分家を持たぬ、東下の「猟師の子せがれ」で、
                     田畑もなく、掘っ立て小屋に住んでいたので、平家が戦に勝った時には、
                     親子で山田の郷から出奔すれば、お咎めも、そこまで。
                     もし、義久少年が開戦当時、東下のみならず白川、多井畑にも分家を持つ
                     鷲尾家の人であったなら、平家が戦に勝った時には、
                     源氏に協力した責は鷲尾家だけでなく、山田の郷にも及んだことでしょう。
                  ・本稿は、義久少年は東下の「猟師の子せがれ」、
                        義経は、白川や多井畑ではなく、東下で道先案内人を得た、
                        義経進軍路のうち、「東下〜藍那」ルートは確定的である、
                     という説をとりたいと思います。

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