福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


  ・平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
                       義経の奇襲T / 義経の奇襲U
     (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース
  ・源平一の谷の合戦 余話
    平清盛参詣道と丹生山田の郷
    義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
            藍那〜鵯越
              写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                         須磨一ノ谷の道
              写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                          鵯越筋への道U
              写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
              写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
    源義経進軍路の謎 土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列  * *

    < 藍那より先の土肥実平軍の進路 >
       ・義経軍の兵の多く(約千五百騎)をまかされて、藍那・相談ヶ辻で義経軍と分かれた土肥実平軍は、
           白辺路を下って、白川を経て多井畑に至り、塩屋谷川の上流や西岸の高台に兵を配して、
           明朝の開戦を迎えることになりました。
       ・これに対する平忠度の軍は、
           塩屋口に先鋒隊(主力軍)、鉢伏山の麓に本陣、現在の一の谷町に後詰めを縦一列に配し、
           塩屋口〜旗振山(253m)〜鉢伏山(246m)〜須磨口の尾根沿いに守備隊を並列させました。
           陣形としては鋒矢(ほうし)の一種だろうかと思いますが、
           山岳地に守備隊を配し、更に須磨寺近辺に後方支援基地を置いて
           強力防御型陣形を整えており、鋒矢陣形としては特異な形でした。
       ・平忠度軍が布陣した地は、急峻な山と海の間に延びる約2kmの隘路(幅は広い所でも100m足らず)で、
           清盛が福原に都を構えた第一の理由が、この須磨鉢伏山・旗振山の堅塁だったことを勘案すれば、
           平忠度軍の布陣はこれ以外にはありえなかった、と思われます。
          
    
                          須磨海水浴場より須磨の浦を望む。
                 濃い緑の山並みの稜線の向かって左(海に近い方)の高嶺が鉢伏山。
                  須磨海岸の砂浜は山の手前、堤防のあるところで途切れています。
               その先は山が海に落ちていて、須磨の浦の海岸が極めて狭いことが分かります。 
                       平忠度の本陣が置かれた地は、鉢伏山の南東側斜面、
               現在名で言えば、山陽「須磨浦公園」駅〜「須磨観光ハウス 味と宿 花月」辺りの
                          標高 20〜60m地点にあったと推定しました。
     
                                                          *
       ・この土肥・忠度両軍の布陣は平忠度軍に圧倒的に有利で、これが単独の戦であったなら、
           土肥軍は倍の兵をもってしても、あるいはまた、首尾よく一ノ谷側に兵を迂回できたとしても、
           平忠度の堅陣を容易に破ることはできなかった、かと思われます。

                  なお、平忠度の堅陣に乱れがない開戦直後に、
                  わずか 70騎ほどの義経主従が須磨一ノ谷を坂落しして
                  平忠度軍の背後(須磨口)から奇襲をしかけようとしても、
                    (1) そこは宗盛・大輪田泊本陣の前面で、
                      大輪田泊本陣と須磨・忠度軍に挟まれた敵陣深き所で、
                    (2) しかも退路がどこにもなくて、
                    (3) 大輪田泊本陣に攻め込めば、背後から平忠度軍の追撃を受けて
                      挟み撃ちの目にあうだろうし、
                    (4) また、背後の脅威を取り除くために平忠度軍を攻めても、
                      後方支援も側面援護もない70騎ほどの寡兵でもって
                      須磨海岸側から鉢伏山側に攻め上らなければならず、
                  壊滅させられるのは、地の利のある平忠度軍の方ではなく、
                  義経主従70騎の方であることは、容易に理解できることではないでしょうか。
                  また、仮に義経主従70騎の須磨奇襲が成功したのだとしても、
                  平宗盛本陣が置かれた大輪田泊は、須磨から直線距離で 7km離れていて、
                  義経主従70騎が、敗走する平家須磨軍を追尾しながら(平忠度は長田・駒ケ林で
                  討死したらしい)、短時間に平宗盛本陣に迫るのは容易ではなかった !!
                  更に、義経主従70騎が短時間に平宗盛本陣を打ち負かしたとしても、
                  このことだけでもって、一の谷合戦の大勢が決したとは言えません。
                  大輪田泊から 3km先の生田の森に陣をかまえた平家知盛・重衡主力軍が、
                  源範頼主力軍との緒戦をやや優勢に進めている。
                  この平家主力軍が、平宗盛本陣の自壊の報を受けて西へ敗走する。
                  この時点まで待たなければ、源氏軍の勝利が確定したとはいえません。
                  義経 70騎坂落し奇襲開始より、この生田の森陣の敗走までの経過時間は約2時間。
                  須磨を起点とすると、騎馬&歩兵戦では不可能ではないでしょうか !!

       ・土肥・忠度両軍の対峙陣形を見るかぎりでは、土肥軍単独には勝目がありませんでした。
           が、土肥軍が塩屋谷川沿いに進出して塩屋口を塞ぐように布陣できたことの意味は大きく、
           これによって、平家は西国からの援軍を期待できなくなり、更には、
           平家が負け戦を強いられた際に、再度、西国に逃れて再々起をはかろうとしても、
           退路が断たれている、ということになりました。

       ・戦は陣形のみによっては決しません。開戦当日、
           朝に平家に有利に働いた須磨の浦海岸の隘路が、夕べも待たずに平家の息の根を止めました。
           清盛が難攻不落と考えた砦が、平家難行不脱の関に変りました。
           そして、最後には、この地に逃げのびて来た平敦盛らの非業の死があって、
           須磨は、まさに盛者必衰、因果応報、諸行無常の『平家物語』のクライマックスを
           飾るにふさわしい地となりました。

       ・源平須磨砦の戦い・塩屋編については、写真集<塩屋から平家・須磨砦への道>をご覧ください。
       ・義経搦手軍のその後については、一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編)をご覧ください。

    < 平家敗走の時系列 > 
       (1) 義経70騎奇襲〜福原京跡砦の陥落と大輪田泊への敗走〜大輪田泊の平宗盛本陣の自壊と船への逃避
       (2) 生田の森主力軍の退却と西への敗走〜夢野(山の手)軍の孤立化
       (3) 夢野(山の手)軍の陣放棄と南への敗走〜須磨鉢伏山・旗振山軍の孤立化と西への敗走

         ・平敦盛や平重衡などが須磨に逃げてきたのは、平家の船が須磨沖で待っていたからですし、
             制海権を掌握していた平家の船が大和田泊を離れて須磨沖に停泊していたのは、
             まだ須磨鉢伏山・旗振山軍が陥落していなかったからでしょう。
         ・平家副将軍・平重衡は生田の森より西方に逃れて、
             「平重衡とらわれの松跡(現・山陽須磨寺駅前)」にて捕縛。
         ・平敦盛は平家山の手陣より逃れて、須磨の海岸で討死。
             須磨寺に、「敦盛公首洗いの池」や、敦盛公首検分の「義経 腰掛の松」があるのは、
             ここが終戦の地であった証左でしょう。
             また須磨寺が公表しているように、跡形もなきほど須磨寺が破壊し尽くされたのであれば、
             それは、須磨寺の地が戦の緒戦ではなく、平家敗兵最後の抵抗の地であった故でしょう
             (最重要軍事拠点ではなかった須磨寺を、開戦直後に、70騎の寡兵で、
              時間をかけて徹底破壊していたら、この源平決戦は2時間では決着つかなかった !!)。
         ・平忠度は須磨鉢伏山・旗振山本陣より西方の敵前を突破して、明石人丸にて討死。
             平忠度は平家武将の船への逃避を見届けるまで須磨砦を死守したため、
             自らが落ちゆく先は、この時すでに源範頼主力軍によって占拠されていた東の長田ではなく、
             西の明石しか残されていませんでした。
         ・ 義経奇襲によって須磨一の谷から平家軍崩壊が始まり、
             それが、須磨から直線距離で 7km離れた大輪田泊の平宗盛本陣、
                       10km離れた東の生田、
                       8km離れた北の福原京跡・夢野の 全戦線に短時間で波及して、
             合戦後半には、平家武将や歩兵が須磨をめざして、逆方向(西や南)に逃げてくるというのは、
             平家軍と源氏軍はいつ、どのようにして入れ替わりえたのか、大いなる疑問で、
             時系列的に無理があるのではないでしょうか。
             なお、本稿が義経坂落としの地(清盛雪見御所邸のある福原京跡)より
             大輪田泊の平宗盛本陣までは、直線距離で 2.5km(下り坂)ほど離れています。

    < おわりに〜平家の敗因〜 >  
       ・平家の敗因を軍事面から考えると、その第一はやはり、
          平宗盛本陣を大輪田泊の低地に置いて半方円の陣を敷いたことにあると思います。
          方円または半方円の陣は、全方位からの敵奇襲に対処する防御的な陣形で、
            どの方角からの敵襲にも対応できるけれども、
            前線が長大過ぎて、兵が拡散するため、
            局所的な攻撃に長時間 耐えることができないという欠点を持っています。 
          平宗盛陣形にあっては、
            生田川が海岸線から山際までが約 2km、生田川〜鵯越間が 6km、鵯越〜須磨〜塩屋間が 9kmもあり、
            前線が長大過ぎて、これを数千の兵で遺漏なく長時間守りとおすことは不可能に近く、
            局所的な攻撃を受けた場合には、
            直ぐに別の陣形に移行して戦闘する必要があったにもかかわらず、
            平宗盛は開戦後にも、その陣形を変えませんでした。
          平家軍の最も弱い最前線・福原京跡地への義経奇襲部隊の突入を契機として、
            平家軍は一挙に崩壊しましたが、もし義経がいなかったとしても、
            兵を広く薄く布陣させた宗盛の半方円陣形は、いつか、どこかで綻びを生じて、
            平家軍は敗退を余儀なくされていたことでしょう。
            (清盛福原京は都を造るには狭すぎ、守り戦をするには広すぎたようです)

      ・平家の敗因の第二は、
           北面防備が以外なほど手薄だったことにあると思います。
           この点に関しては、平清盛参詣道と丹生山田の郷をご覧ください。

      ・平家の敗因の第三は、
           清盛陣形の陥穽ともいうべき「生田の森」陣形にあると思うのですが、
           この点につきましては、生田の森の陥穽をご覧ください。

      ・いずれにしても、平家軍は戦略的・戦術的に多くの問題をかかえていました。
           平家の敗因をひとことで言えば、
           「清盛戦略はあったけれど、確固とした宗盛戦略はなかった」
           ということだろうと思います。

      ・もし平家軍に勝てるチャンスがあったとしたら、 
           (1) 徹底した清盛戦略の遂行を採用するなら、
             開戦直後に、宗盛・福原京跡砦本陣の機動部隊を烏原川沿いに北上させて、
             現・鵯越駅方面(主力)と、現・烏原ダム〜鵯越筋尾根(副)の二方から、
             <義経・安田義定・多田行綱>夢野口軍を攻め、
             義経搦手軍が動揺したところを、夢野<山の手>軍でたたく。
           (2) 大輪田泊本陣・宗盛半方円の陣を良しとするなら、
             開戦直後に、源氏軍の動きを見定めてから、
             宗盛が率いる大輪田泊本陣を生田の森に進め、生田川沿いを重衡軍で固めて、
             知盛軍を布引寄りの地より現・熊内町に入れて、山際の高所より源氏・範頼軍を攻略する。
           (3) 「安徳天皇と三種の神器」堅持の宗盛路線を採用するのなら、
             開戦前に宗盛本隊を船5艘で離脱させて、
             たとえば加古川の西に布陣して兵を募り、
             明石川、さらには福田川に進出して、
             塩屋口に布陣する土肥実平軍の側面や背後を突く戦法にでる、
           のいずれかだったのでしょうが、
           『平家物語』の作者が言うように、奢れる者は久しからずや、
           平家は戦に勝つ術を知らず、滅びへの道を行くしかなかったのでしょう。

      ・そして、この稿の最後に特筆すべきは…、
           源平一の谷の合戦の凄いところは、
           敗者やそれに繋がる者は根絶やしの目にあい、勝者ですらも、
           源義経・安田義定・多田行綱など、名だたる戦の功労者の多くが戦後に失脚して、
           鎌倉幕府の公式記録から微妙に脱落してしまったために、
           誰が、どこで、どう戦をしたのかすら明らかでなくなった、ことにあろうかと存じます。

           凄まじきは戦に勝った者にも負けた者にもあらずして、げに この一事にあり !

                       奢るるも 猛しも滅ぶ 春の夜   俳子

                             前のページへ   このページのTOPへ  次のページ
 
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