福原京と兵庫津の道を訪ねて |
・平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U ・一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経 義経の奇襲T / 義経の奇襲U (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース) ・源平一の谷の合戦 余話 平清盛参詣道と丹生山田の郷 義経進軍路の謎 義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷 藍那〜鵯越 写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道 須磨一ノ谷の道 写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T 鵯越筋への道U 写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻 写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T 夢野・福原京跡への道U 土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列 写真集<塩屋から平家須磨砦への道T> 写真集<塩屋から平家須磨砦への道U> 生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U 一の谷の迷路 ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道 |
写 真 集 < 塩 屋 か ら 平 家 須 磨 砦 へ の 道T > * | |
![]() |
須磨開戦の地・塩屋口(西城戸)がどうなっているか、次に見てみましょう。 左写真は垂水区塩屋町1から見た旗振山・鉢伏山。 旗振山の標高は 252m、鉢伏山の標高は 246m。 鉢伏山から須磨浦の海までの距離は、最も近いところで 750mです。 |
![]() |
左写真は垂水区塩屋町2。 鉄柵の向こう側を山陽電車が走り、 写真の右端を国道2号線とJR山陽本線が通っています。 鉢伏山・旗振山の南斜面は超急峻で、しかも、海がすぐ近くに迫っていて、 塩屋から須磨区一ノ谷5にかけての海岸線には、広い所でも100m足らずの 幅しかない隘路が約 2kmにわたって続いていて、 義経の時代には、この地は越すに越されぬ難所でした。 この長大な隘路沿いに塩屋から須磨へと攻めこむのは、 兵力が圧倒的に優っていなければ無理だったろうと推測されます。 |
![]() |
旗振山の西南側斜面を見てみましょう。 旗振山の西南側斜面は、南側斜面に比べると、少し緩やかです。 左写真は、山陽電車「塩屋」駅のプラットホームから見た旗振山の西南側斜面。 写真中央・やや左寄りにある白壁・赤屋根の建物群が 塩屋住宅アパート(塩屋町3)。 塩屋住宅アパート群は、山陽電車「塩屋」駅の北北西 600m先にあって、 そこから少し北に行った所に「源平合戦戦歿者供養塔(源平塚)」があります。 この「供養塔)」は、塩屋口の戦いを理解するのに重要な史蹟です。 行ってみることにしましょう。 |
![]() |
左写真は、塩屋谷川。川の左側(西側)はジェームス山の高台。 旗振山は川の右側(東側)にあります。 塩屋谷川の源流は近くの奥須磨公園で、塩屋谷川の流れは緩やかですが、 両岸すぐに山が迫っていて、塩屋谷川下流の谷は深くなっています。 この塩屋谷川沿いの狭い道を北上して…、 |
![]() |
塩屋保育園(垂水区塩屋町3丁目23-1)の前の急な坂を登って…、 左写真は塩屋保育園(標高 26m)前の坂。 写真の向こう正面がジェームス山。その手前の低地を塩屋谷川が流れています。 |
![]() |
塩屋保育園前の坂しばらく行くと、塩屋住宅アパート群があって、 塩屋住宅の周囲を反時計回りに進むと、 「六甲全山縦走路」の木の標識が立っている坂があります(左写真)。 |
![]() |
この「旧・六甲全山縦走路」入口の坂の少し先に塩屋 山王神社があります。 山王神社(標高 54m)の住所は、神戸市垂水区塩屋町4-14 -7 です。 |
![]() |
左写真は、山王神社の一角に建てられた「源平合戦戦歿者供養塔」案内板。 |
![]() |
「源平合戦戦歿者供養塔」(標高 63m)は、 神戸少年の家(垂水区塩屋町字梅木谷720)の グランドの奥にある小高い山の中にあります。 敷地内に鳥居などの神社施設はなく、 案内板がなければ見つけることができないような目立たぬ場所でした。 |
![]() |
源平合戦戦歿者供養塔に行く途中の薮の中に 小さな祠があり、亀光大明神が祀られていました。 昔、塩屋の浜に一畳ほどの大きさの海亀が現れ、 それを山に上げて祀ったという伝説に由来する祠で、亀山塚とも呼ばれています。 |
![]() |
「源平合戦戦歿者供養塔」の地には、左写真のように五輪塔が建っています。 五輪塔は大小合わせて18基あり、供養塔の回りには花が供えられていました。 |
![]() |
五輪塔のそばに建っている案内板。 案内板によると、 「塩屋の地は城の内外の激しい戦いの中心になって 多くの戦歿者がで」て、 「それらの人達を…此処に葬り又其の後供養塔を建立」したとあります。 「源平合戦戦歿者供養塔」の近くで、 激しい戦闘が行われ、多くの戦死者がでたようです。 この「源平合戦戦歿者供養塔」の地がどうなっているか ? もう少し詳しく見てみることにしましょう。 |
前のページへ このページのTOPへ 次のページへ |