福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


  ・平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
                       義経の奇襲T / 義経の奇襲U
     (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース
  ・源平一の谷の合戦 余話
    平清盛参詣道と丹生山田の郷
    義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
            藍那〜鵯越
              写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                         須磨一ノ谷の道
              写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                          鵯越筋への道U
              写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
              写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
         源義経進軍路の謎 藍那〜鵯越  *

   < 藍那より先の義経進軍路 >
       ・藍那(標高242m)まで進軍して来た義経軍は、藍那・相談ヶ辻(標高278m)で軍議を開きます。
           藍那・相談ヶ辻で何が軍議(相談)されたかについては…、
           ・範頼・義経軍が京都を出立した時の源氏軍の平家攻略の基本戦略は、
              源氏主力軍を生田の森に、副軍を須磨に進出させて、平家を挟み撃ちにするというもので、
           ・須磨をめざした義経副軍の進軍路としては、
              京都から丹波路に入って三草山を経て須磨に入る遠路よりも、
              京都〜池田〜米谷(宝塚市)〜湯山(有馬)〜東下〜藍那〜須磨へと進軍する最短路が、
              難路が少なくて、大規模敵襲のリスクも少なく、最も合理的でした。
           ・そして、藍那まで来た義経軍が須磨に行く道は、そのまま南西の方向に
              白川・多井畑に至る緩やかな坂(白辺路・しらべじ)を下るのが自然なのですが…、
           ・ここで兵を二手に分けて、兵の一部を南東寄りに迂回させて鵯越筋をめざすことになります。
              この鵯越筋への進軍が、
              京都を出立する前に申し合わせた作戦案に事前に盛り込まれていたのであれば、
              義経は、藍那・相談ヶ辻で改めて軍議を開く必要がありません。
              ここで、わざわざ軍議を開かなければならなかったのは、
              鵯越筋への進軍が事前の申し合わせ事項ではなかった、が為でした。
           ・おそらくは頼朝の承認を得ていたであろう当初作戦計画。
              これを、開戦直前に、急遽、変更するための軍議の開催…。
           ・が、 火急の事態が発生していないにもかかわらず、
              現場指揮官(義経)がその独自判断で勝手に基本戦略を変更するのは、
              軍規違反になるのではないか ?!
           ・この軍規違反になるかもしれない作戦変更が、なぜなされなければならなかったのか ?
               本稿は以下のように考えます。

       ・義経軍の一部を平家軍の北面へ進出させるという、この作戦変更は、
           藍那から鵯越筋へ通じる道があるという東下の猟師のルート情報を得た
              義経の強い意志によってなされました。
           ・須磨の平家砦は堅牢で、攻め落とすのは容易でない。
           ・平家軍の北面(鵯越筋)に進出できれば、平家軍の高所を制圧できる。
           ・そうなれば、平家も 3方面に兵を分散せざるをえなくなる。
           ・源氏が平家北面に兵をさいて須磨攻めの兵の数を減らしても、
              その兵で塩屋谷川上流の高所を制して、平家須磨砦を遠巻きに包囲すれば、
              圧倒的な地の利を有する須磨・平家軍は、
              その軍事的な優位性を失うことになるかもしれないような深追い攻撃をしかけてはこない。
           ・主戦場は生田の森にあり、副戦場の須磨では源氏は負けなければ、それでよい。
              義経はそう考えて、作戦変更したのではないでしょうか。
       ・須磨攻めの兵を二分する、この作戦変更によって、もし土肥実平軍が須磨での戦いに敗れれば、
           その敗北の責は土肥実平軍にではなく、義経にあることになります。
       ・それから、戦に勝利しても、義経は後でこの軍規違反を咎めだてされるかもしれません。
           が、義経は意に介しませんでした。
           義経は頼朝の弟で、しかも直参ではなく新参者で、遊軍の雄でした。
           そして、義経はどうすれば戦に勝てるかを知っている軍事的天才でした。
           須磨の狭路から攻め上がるより、平家北面の高所から攻め下る方が良い !
           義経は決断すべきことを坦々と決断したのでした。
       ・そして、藍那・相談ヶ辻での軍議の結果、義経軍は二手に分かれて、
           鎌倉軍ゆかりの兵を中核とする土肥実平主力軍約千五百騎は、
           藍那〜白川〜多井畑を経て塩屋・須磨をめざし、
           義経搦手軍約七百騎は南東進して、イヤガ谷沿いの道から鵯越筋をめざすことになりました。
       ・義経と行動を共にしたのは、義経直参の兵と、
           安田義定に代表される鎌倉・関東の独立系源氏の兵と、
           平家復権によって危機感を募らせる地元・多田行綱軍などで、
           彼らは、どちらかと言えば非主流・下級の兵で、軍規違反の責を問われても、
           失うものがほとんどない、戦で武勲をあげることだけを願う者たちでした。
           おおいなる勝利か、しからずんば死か !  
           戦に負ければ、逃げおおせても死かそれに等しい処遇 !
           言うなれば、自らの意思で退路を断っての出撃 !
           こうして彼らが藍那・相談ヶ辻で土肥実平軍と分かれて鵯越筋に進軍を開始した、
           まさにその時、源氏最強の軍団が誕生していたのでした。


       ・なお、「義経軍は藍那・相談ヶ辻から高尾山に南進した後に
           高尾山〜白川〜須磨一ノ谷のルートを西南進した」とする説は、
           義経軍がなぜ、近道となる藍那〜白川の緩やかな下り坂(白辺路)を行かないで、
           藍那から高尾山(鵯越)へ迂回してまでして
           高尾山〜白川の道なき難路を行く必要があったのかが説明不足で、
           現・しあわせの村周辺の地理・地形を知る者としては納得しがたいです。

               ・ご参考までに藍那〜白川の地理データを掲載すると、以下のようになります。
                 藍那駅の標高は242m、藍那・相談ヶ辻の標高は278m。
                 白川の標高は大歳神社で 166m。
                 「藍那〜大歳神社」間は直線距離で約 4.7km離れていて、標高差が下り約 110m。
                 高尾山の標高は403m、義経馬つなぎの松(現・高尾山地蔵院)の標高は 375m。
                 「藍那・相談ヶ辻〜義経馬つなぎの松」間は約 3.5km離れていて、標高差が 100m。
                 「義経馬つなぎの松〜大歳神社」間は直線距離で約 3km離れていて、標高差が 200m。

       ・追記:本稿執筆後、
           「義経軍は藍那・相談ヶ辻から高尾山に南進した後に高尾山〜白川〜須磨一ノ谷のルートを
           西南進した」とする説は、以下のように変更されました。
               「高尾山付近から山中に入った義経は鷲尾三郎義久の案内により…、
               獣道を通り、妙法寺の西に出、それから西南に向かい多井畑に出た。
               義経はようやく鉄拐山に辿りつくと…」
           この新説の問題点は、
               (1) どのルートをとっても難路だった
                 ・高尾山から須磨一ノ谷までは直線距離でも約 8km近くあり、
                  しかも、どのルートを通っても山また山、谷また谷で、
                  妙法寺から多井畑までの道を除けば、
                  獣道のような道なき道を行かなければなりません。

                 ・高尾山〜須磨一ノ谷の地理データは以下の通りです。
                      高尾山の標高は403m、義経馬つなぎの松の標高は 375m。
                      妙法寺の標高は妙法寺小学校で 70m。
                      「義経馬つなぎの松〜妙法寺小学校」間は
                                 直線距離で約 3,5km離れていて、標高差が下り 300m。
                      多井畑の標高は多井畑小学校で 126m。
                      「妙法寺小学校〜多井畑小学校」間は
                                 直線距離で約 2.5km離れていて、標高差が上り約 50m。
                      鉄拐山の標高は234m。
                      「多井畑小学校〜鉄拐山」間は直線距離で約 1.5km離れていて、標高差が上り 100m。
                      須磨区一ノ谷町(安徳帝内裏跡伝説地)の標高は 50m。
                      「鉄拐山〜須磨一ノ谷」間は直線距離で約 1km離れていて、
                                            標高差が下り約 180mとなっています。

                 ・六甲山は50万年ぐらい前に隆起してできた比較的若い山で、断層が多く、
                  義経の出発地点とされている高尾山の南面は断崖絶壁ですし、
                  高尾山の西側・妙法寺筋も、現在の土木技術をもってしても、
                  山を深く削ったり(西神戸道路・旧鵯インターチェンジ〜白川台間)、
                  トンネルを掘り、橋を渡したり(ひよどり南町〜高取山間)しなければ
                  道を通せないほど、谷深いです。

                       標高は旧鵯インターチェンジ 245m、須磨区若草町・車(地名)の交差点 145m。
                       白川側…「旧鵯インターチェンジ〜須磨区若草町・車」間は
                                 直線距離で 1.7km離れていて、標高差が下り 100m。
                       ひよどり南町下の谷の標高 175m。
                       妙法寺側…「旧鵯インターチェンジ〜ひよどり南町下の谷」間は
                                 直線距離で 1.2km離れていて、標高差が下り 70m。

                  それから、多井畑から鉄拐山に至る道なき道も、
                  その途中にある高倉山が、今は150mほどの標高しかありませんが、
                  神戸ポートランド沖の埋め立てのために山を削りとる前は標高が291mでした。
                  須磨アルプス〜高倉山〜鉄拐山〜旗振山と連なる山は、
                  低山であるにもかかわらず、山容険しく、
                  ハイキングコースがよく整備されている現在でも、その尾根道を歩くのですら容易ではなく、
                  義経が、その最高峰近くを尾根道に交差するように西から東に横断するとなると、
                  最高峰・高倉山を経るにしろ、迂回して鉄拐山を直登するにしろ、
                  樹木が鬱蒼と生い茂って道も定かでない、長き急斜面を登って行くしかありません。
                  そして、義経が坂落ししたとされる須磨一ノ谷も、
                  「当時は黒松が生えていて、密集樹林帯ではなかった」と、
                  どこにもその記録がない仮説で補強しなければ、下り降りるのも難しいと思われる、
                  1km余にも及ぶ道なき急坂です。
               (2) 未明の行軍は可能だったか
                 ・旧暦1184年2月6日(新暦1184年3月19日)の月齢は 5でした。
                  上弦の月(月齢では7〜8)は正午頃昇り、夕方に南中、深夜に西に沈んでいく月なので、
                  旧暦1184年2月6日の月齢 5の月は、それよりも早く、20:00前後に西端に消えており、
                  2月7日に日付が変わる頃には無明でした。
                  また、2月6日〜2月7日が雲ひとつない晴天だったとしても、
                  春は微光星は見えず、目視できる星も全て朧なので、星明かりも期待できません。
                  そして、旧暦1184年2月7日の神戸の日の出時刻は午前 5時54分でした。
                 ・この日の出を待って高尾山(義経馬つなぎの松)を出立したら、
                  午前 8時前に須磨一ノ谷の坂上にたどり着くことができません。
                 ・夜明け前の空が白みはじめるころに出立しても、山中は足元不如意です。
                  「獣道を通り、妙法寺の西に出」て、多井畑、鉄拐山に人馬を進めるのは、
                  難儀を極めただろうと思われます。
                 ・開戦は午前6時の約束なので、
                  義経は、その時刻に須磨一ノ谷に到達していたかったでしょうから、
                  相当早い時刻に高尾山を出立したのでしょう。
                 ・が、未明、まだ暗いうちに、土地勘のない山中を進軍するのは簡単ではありません。
                  義経は「獣道」を行くのに松明を燃やしたのでしょうか ?
                  未明に敵前近くで松明を燃やして進軍して奇襲を敢行する ?
                  こんな奇妙な奇襲は多分ないでしょうから、
                  義経は、きっと闇深き山中の獣道を、無明のまま進軍したのでしょう。
                 ・義経は高尾山を出発して妙法寺の西に出るまでに、
                  獣道で何度も何度も立ち往生したことでしょう。
                 ・妙法寺から先も、多井畑までは馬を早駆けすることができたかもしれませんが、
                  徒歩の兵もいたでしょうし、
                  「多井畑〜鉄拐山〜須磨一ノ谷」間は、騎馬行軍に苦労したことでしょう。
                 ・「高尾山〜須磨一ノ谷」間を武具で身をかため、馬をともなって行軍するとなると、
                  どれだけ時間がかかるかわかりません。
                  午前6時に須磨一ノ谷の坂落しを敢行するために、
                  義経は高尾山を早くに出立して、夜を徹して、六甲山西端の山中を南行したのでしょう。
               (3) 義経主従70騎はエスパー(超能力集団)集団だったのでしょうか
                 ・須磨一ノ谷坂落し前の義経軍のタイム・スケジュール(通説)を整理すると、
                     義経は、2月5日の夜、播磨の国で三草山の戦いを行い、
                           高砂方面に逃げる平家敗兵を追尾し、
                     2月6日は三草山から小野、三木を経て、摂津の国・鵯越筋に進軍。
                           三草山〜小野は直線距離で、約 15km
                           小野〜三木は直線距離で、約 8km
                           三木〜鵯越(高尾山・義経馬つなぎの松)は直線距離で、約 20km
                           土地勘がなく、山中で道に迷ったりしながら、この直線距離 40余kmを踏破。
                     そして2月7日の未明には鵯越筋から須磨・鉄拐山に密かに行軍して、
                     2月7日午前8時には、首尾よく須磨一ノ谷の坂逆しを完遂 となります。
                 ・三草山から鵯越までの道は当然のことながら曲がりくねり、上り下りもあるでしょうし、
                     また、土地勘のない地のために途中、山中で道に迷いもしたので、
                     直線距離 40余kmを踏破するためには、 60km以上の行軍が必要だったでしょう。
                     道路網のよく整備された現在なら、あるいは可能かも知れませんが、
                     1184年にこの騎馬兵&徒歩兵による強行軍が可能だったかどうか、疑問です。
                 ・もし仮に可能だったとしても、義経がなぜ、天下分け目の戦の開戦前に、
                  兵の疲弊も省みずに、このようなエスパー(超能力者)でないとできそうもない
                  不眠不休の難行苦行を行ったのか、理解に苦しむところです。
               (4) 「須磨=義経伝説の地」説の迷妄
                 ・ 須磨は義経伝説の地であるらしい。
                  「義経伝説の地」は、須磨の他にも全国各地に数多く点在していて、
                  その要件は、義経がらみの言い伝えがその地に残っていれば、それでよく、
                  必ずしも歴史的史実に合致している必要はなく、
                  並の人ではできそうもない難事を見事にクリアーして源氏を勝利に導くヒーロー
                  ・エスパー義経主従70騎が華々しく登場する「須磨・一ノ谷」は、
                  その要件を十分に満たしているのでありましょう。
                 ・が、「須磨=義経伝説の地」説が世に蔓延った結果、
                  「義経坂落しは『平家物語』の作者の創作で、荒唐無稽な虚構である」
                  との見方が歴史学の専門家の間では有力となり、
                 ・「鵯越坂落し」史実が歴史の闇の中に葬り去られたのでした。
                 ・須磨が義経伝説によって得たものと失ったもの、
                  そして神戸が須磨・義経伝説によって得たものと失ったものの、
                  そのいずれが多かったのか、地域のセクショナリズムを離れて一度、
                  冷静になって考え直してみる必要があるのではないでしょうか。
                 ・須磨の風光明媚な自然を愛し、須磨の歴史古きを尊ぶひとりとして、
                  若輩を顧みず、あえて苦言を呈す次第です。

       話を本題にもどしましょう。 
       ・藍那〜白川〜須磨一ノ谷の地理・地形、当時の道路事情を勘案すれば、常識的に考えて、
           高尾山の義経義経馬つなぎの松の近くに露営した義経が未明に出立して須磨に行くには、
           前日に来た道を藍那・相談ヶ辻まで引き返して白辺路の古道に入るのが最善ですが、
           片道 約 3.5km、標高差120mを往復するロスは大きく、
           これだと、「義経が藍那から須磨一ノ谷に行くのに、
           なぜ高尾山へ迂回しなければならなかったのか」の謎は、解けないままです。

      ・蛇足ながら、「高尾山(鵯越)〜福原京(雪御所町)」関連のデータはどうなっているかというと、
           ・高尾山の標高は403m、義経馬つなぎの松(現・高尾山地蔵院)の標高は 375m。
                          鵯越墓園入口に建つ鵯越碑の標高は 175m。
            雪見御所の標高は 29m。
              義経馬つなぎの松から雪御所町までは直線距離で約 4kmで、標高差は 340m(270m)。
              鵯越筋の東側の谷筋(烏原古道)を南東下すると、福原京跡(雪御所町)に出ます。
           ・夢野<山の手>陣の中央部・夢野八幡神社の標高は 50m。
              義経馬つなぎの松から夢野八幡神社までは直線距離で約3.5kmで、標高差は 320m(250m)。
              鵯越筋(尾根道)を南下すると、夢野に出ます。
           ・平盛俊の陣営・明泉寺の標高は 58m。
              義経馬つなぎの松から明泉寺までは直線距離で約3.5kmで、標高差は 310m(240m)。
              鵯越筋の西側の谷筋を南下すると、明泉寺に出ます。
               ()内の数字は、高尾山東斜面〜イヤガ谷東尾根一帯を始点と考えた場合の標高差です。

           ・義経が開戦前日の2月6日夜に露営した場所については、
              本稿は、義経馬つなぎの松がある高尾山山頂(西面)付近ではなく、
              そこよりも標高が低く、平家・夢野<山の手>陣に近い、高尾山の東面の鵯越古道沿い
              (標高約150〜200m、夢野八幡神社から直線距離約 3km)であったと考えています。
              その理由としては、
               (1) 現在は旧・西神戸有料道路が鵯越墓園口近くを通っていて、
                 鵯越筋から鵯越墓園を経て高尾山地蔵院に車でも行くことができますが、
                 義経の時代には、旧・西神戸有料道路も鵯越墓園道もあろうはずがなく、
                 鵯越筋から高尾山に直登しようとすれば、
                 高尾山南面の絶壁・急斜面が行く手をはばんでいました。
                 このため、藍那へと通じる鵯越古道は、
                 高尾山とイヤガ谷東尾根の間を流れるイヤガ谷川沿いを通っていました。
                 義経の時代に高尾山の山頂へ至るには、高尾山の北面を藍那方向より入るしかなく、
                 そこから先は、白川、妙法寺、明泉寺、鵯越筋のいずれに抜けようとしても、
                 行くも困難な断崖絶壁や超急峻な坂が、その行く手をはばんでいました。
                 もし、藍那・相談ヶ辻を出立した義経が高尾山山頂をめざし、
                 道なき道を通って義経馬つなぎの松がある地にたどり着けたとしても、
                 そこから先は、行軍するも難き難路があるのみでした。
               (2) 義経馬つなぎの松の近くに「霊泉白たき井」があったとされてはいても、
                 高尾山の山頂に近い井の水量が多かろうはずもなく、
                 現在も石を組んだだけの枯れ井で、兵力約七百騎の露営地たりえませんでした。
               (3) 高尾山とイヤガ谷東尾根の間を流れるイヤガ谷川沿いは、鵯越古道が通っていて
                 藍那(相談ヶ辻)方面から入りやすく、鵯越筋へ抜けやすい山間(やまあい)の要地にあり、
                 イヤガ谷川の水量も少なからずありました。
           ・義経軍が開戦前夜に露営する地は、平家北面軍にできるだけ近くて、
            しかも平家軍に事前に察知されない程度に離れている必要があって、
            平家北面軍から北へ 3〜4km離れたイヤガ谷川沿い(高尾山東斜面〜イヤガ谷東尾根)は、
            この要件を満たす絶妙の地でした。
           ・もし仮に平家に事前に察知され、夜中に攻撃を仕掛けられたとしても、
            高尾山は急峻で、高尾山を背にしている限り、攻め込まれることはありませんし、
            また、翌朝、出撃する際に平家の待ち伏せ攻撃を受けても、
            尾根筋(鵯越筋)を下る限り、義経軍は高所を確保できて、地理的に優位にたてます。
           ・それから、矢合わせが午前6時であるという要件も、
            鵯越古道や烏原古道沿いを未明に 3〜4km下り行軍するだけですから、十分にクリアできます。

           ・義経が開戦前夜の露営地を鵯越に選んだ理由は、
            こうした平家中央軍・北面へのアプローチの良さにあるのであって、
            「須磨一ノ谷へのアクセスの良さ」にあるのでは断じてない、と思うのですが…。

                   *写真集<鵯越からの道>も本稿と同じテーマを扱っております。
                    あらせてご検討いただければ、うれしいです。

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