福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


  ・平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U
  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
                       義経の奇襲T / 義経の奇襲U
     (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース
  ・源平一の谷の合戦 余話
    平清盛参詣道と丹生山田の郷
    義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
            藍那〜鵯越
              写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                         須磨一ノ谷の道
              写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                          鵯越筋への道U
              写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
              写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
       写真集<鵯越からの道>(4) 夢野 ・福原京跡への道U  *
義経が藍那・相談ヶ辻で転進・進軍して行った先は、
   イヤガ谷川沿いを藍那から鵯越筋へと通じる鵯越古道しかなかった !!
そして、義経が開戦前夜に露営した地は、左写真のような
   イヤガ谷川沿いの川原一帯だった、と本稿は推論しました。

義経・安田義定・多田行綱軍は、イヤガ谷東尾根の南端
   (鵯越筋北端)に前線警護隊を置き、
   本隊をイヤガ谷川沿いに縦長に配して露営しました。
この地の標高は約150〜200m、
   夢野八幡神社(標高 50m)からの距離は約 3km。
   平家・夢野<山の手>陣に近く、しかも平家軍に
   事前に察知されない程度には離れていて、
   夜襲をしかけられても防御しやすい地でした。


                        
左写真は2013年3月12日に撮影したイヤガ谷川。
   開戦前日は旧暦1184年2月6日、新暦では3月19日で、
   時節がほぼ同じですから、イヤガ谷川には、義経の時代にも
   約七百騎の兵が露営できる水があったと思われます。

イヤガ谷川の水は、左写真のように白く濁っています。
   これは、通説では上流住宅地から生活排水が流れ込んでいるためと
   されていますが、生活排水が流れ込むはずのない鵯越墓園内
   ・高尾山地蔵院の井の水の方がより白濁していて、理屈にあいません。
この一帯は隆起する前(約3500万年前ごろ)は、古神戸湖と
   いう巨大な湖でした。そして、この湖に堆積した地層(神戸
   層群)に、火山灰が固まってきた凝灰岩が多く含まれていた
   ために、今も水が白く濁っているのです(イヤガ谷川と地蔵院
   の井の白濁の差は流水か地下水かの違いによります)。
従って、義経の時代にも、イヤガ谷川の水は白く濁っていたと思われますが、
   味はともかくとして、煮沸するなどして炊飯・飲水できたのではないでしょうか。






左写真は、高尾山・義経馬つなぎの松
   近くで撮影した神戸層群。

神戸層群は、凝灰岩、泥岩、砂岩、レキ岩から なる地層で、
   左写真のような火山灰からできた地層(凝灰岩)が
   何枚も重なってできています。 






左写真は、義経道の崖に露出した凝灰岩

この凝灰岩は脆くて、水の浸食を受け易く、
   イヤガ谷川が、活断層が複雑にからまりあっている
   急峻な地にありながら、なだらなな流れになっているのも、
   そのせいと考えられます。



左写真は、神戸層群の凝灰岩の中から発掘された
   木の葉の化石。

この化石を見つけるには、
   (1) 神戸層群の凝灰岩をブロック状に切断し、
   (2) 横に薄く筋が入っている所を押し広げるようにして
     二分割する。
   凝灰岩は柔くて脆く、簡単に横割りすることができますので、
   これを根気よく続けていると、
   運がよければ、木の葉化石などを見つけることができます。







鵯越古道がどこを通っていたのかについて、
   旧鵯越墓園そばを流れているイヤガ谷川の地(左写真・
   標高 140m )に立って、改めて考えてみましょう。






高尾山の尾根筋に出るためには、
   左写真の左側の急峻斜面を登らなければならず、
   もし仮に高尾山の尾根筋に出れても、
   そこには鵯越墓園のバス道などあろうはずもなく、
   困難な薮コギが待っています。





旧・西神戸有料道路も丸山大橋も墓園内バス道もない
   高尾山の尾根筋の道がどんなかについては、
   イヤガ谷東尾根のハイキング道を登ってみると、
   その類推で、だいたいの様子がわかります。

旧鵯越墓地近くを流れるイヤガ谷川の地(標高 140m)から、
   左写真の石の階段を登って…、







左写真の鉄塔のある所(標高 325m)までの標高差 190mを、
   直線距離で約 500m(登山道は約 2kn)で登らなければ、
   イヤガ谷東尾根道にたどりつけません。


左上写真の鉄塔上のイヤガ谷東尾根道も、
    しばらくの間は、左写真のように急坂が続きます。
   地理的な基礎データは、イヤガ谷東尾根道の最も高い所は、
   君影町2丁目で標高 366.8m、イヤガ谷川の旧鵯越墓地
   からの距離は約 2.2kmです。高尾山の標高は 403.2mで、
   旧鵯越墓地からの距離は約 1.8kmです。
イヤガ谷東尾根道は、関西電力送電保守道を利用したハイキング道なので、
   よく整備されていますが、それでも登るも下るも大変ですので、
   高尾山への尾根道が簡単であろうはずはありません。

イヤガ谷東尾根道のハイキング情報詳細は、
   外部サイト「六甲山やまある記」
     http://www.geocities.jp/yamaaruki17/ 内の
     http://www.geocities.jp/yamaaruki17/kikusuiyama.html
   をご参照ください。







高尾山とイヤガ谷東尾根道の間の谷を流れる
   イヤガ谷川は、大雨が降った直後の増水時を除けば、,
   水量も多くなく、流れも緩やかです。
   イヤガ谷川の川べりや、場合によっては川の中を行けば、
   十分に歩行可能です。


一般論でいえば、谷筋を行くより尾根筋を行く方が容易です。
   谷筋は滑りやすく、増水時には歩行不能になります。
高尾山にも、いつの頃かは不確かながら、川筋道より便利な
   尾根筋道ができただろうと推測されます。
   鵯越の七不思議のひとつに蛙岩伝説があることからも推測されるように、
   遅くとも近世以降には、高尾山に行ける道があっただろうと思われます。
が、義経の時代にあっては、
   (1) 丹生に行くには、長坂山道を抜ける清盛参詣道が便利で、
   (2)藍那経由の鵯越古道は、義経道が難路で、
     清盛参詣道ほどには利用されなかった、
   (3)兵庫平野から藍那に行くには、人手をかけなくても
     通行可能だったイヤガ谷川沿いの道しかなかった、
   と考えるほかないのではないでしょうか。
左写真は長坂山道。
   (長坂山は、その名前からして傾斜の緩やかな山です。清盛・義経の
    時代の生活道としての尾根筋道は、この長坂山道、鵯越筋、
    白辺路程度の緩傾斜が一般的だったのではないでしょうか)


本稿の説にご不満の方は、小部川・烏原川の地にも出向いて、
   清盛参詣道がどこを通っていたのかを、考えてみてください。
左写真は、石井ダムの上流。今から30年近く前、小生は
   10才に満たない息子ふたり(ひとりは幼稚園児)を連れて、
   鈴蘭台から鈴蘭台下水処理場まで、小部川・烏原川の
   川沿いの道なき道(清盛参詣道)を歩きました。
   往時は左上写真のようには整備されておらず、
   誰もそんな無謀なことをする人はいませんでしたが、 
   わが息子たちは山育ちなので、全行程を自力歩行しました。
小部川・烏原川は、地殻変動によってできた活断層上を
   流れていているにもかかわらず、流れが緩やかで、
   すぐ西隣の谷間を流れるイヤガ谷川と、よく似ています。
清盛参詣道はイヤガ谷東尾根筋ではなく、小部川・烏原川沿いを
   通っていました。それと同じ時代に、鵯越古道が、流れが緩やかな
   イヤガ谷川沿いでなく、イヤガ谷東尾根よりも急峻な高尾山山中を
   通っていたとするのには、無理があるのではないでしょうか。


以下は、この稿のまとめ…開戦当日の鵯越筋の概略です


左写真は、鵯越墓園南端より撮影した鵯越筋。
   写真中央の建物の手前(標高 150m)あたりから
   その後ろの山並みにかけてが鵯越筋。
   鵯越筋で一番高い所の標高は 214m。
   ひよどり展望公園はそのすぐ南にあって、その標高は 185mです。
   ひよどり展望公園は、左写真撮影地の南東 1.5kmにあります。

義経軍の前線警護隊は、鵯越筋の北端、
   この写真撮影地の崖下あたり(標高 180m)に配されていました。


鵯越筋は、(1) 源平町からひよどり展望公園にかけて
          南北に連なる山並み(全長1.5km)だけでなく、
        (2) ひよどり展望公園から兵庫区千鳥町にかけて
          東西に連なる山並み(全長1.5km)も含めた、
          L字型の山並み(全長3km)の総称です。
ひとつ左上の写真が鵯越筋(1)で、
,   左写真・手前の山並みが、鵯越筋(2)です。
   (左写真・奥側の山並みは鍋蓋山の南裾野。
    その手前に雪御所町の町並みが広がっています)

左写真の撮影地は、ひよどり展望公園。
   鵯越筋(2)の標高は、最も高い所で 180mくらい。
   それほど高い尾根筋ではありませんが、
   その北側・南側ともに絶壁に近い急斜面です。
平家・山の手陣が置かれた清水町は、鵯越筋(2)直下(左写真右端下)にあります。


                       
左写真は、長田区明泉町より撮影した鵯越筋(1)。
   写真中央が鵯越筋。
   写真左(源平町)より写真右(ひよどり展望公園)へ
   向けて、北から南へ緩やかに下っています。
鵯越古道が通っているのは、この鵯越筋(1)です。

鵯越古道は、福原や兵庫方面から、イヤガ谷〜藍那を経て
   播磨の国、三木方面へ出る古道。
藍那古道(義経道)とは、この鵯越古道のうち<藍那〜
   長坂山斜面〜山田町東下>間の山道の呼称。
義経は、山田町東下から藍那古道(義経道)を通って、
   藍那〜イヤガ谷〜鵯越筋へと進軍してきたことになります。


                     
左写真は、
   兵庫区里山町より撮影した鵯越筋東側の谷筋。
   写真中央左寄りに神戸電鉄「鵯越」駅(標高 136m)。
   その上の山がイヤガ谷東尾根で、
   右端の緑の濃い山が鵯越筋の山です。

この山間の谷筋に沿って烏原川が流れていて、
   烏原古道(清盛・丹生神社参詣道)が、
   鵯越駅〜烏原貯水池(標高 90m)
   〜福原京跡(標高 29m)へと通じています。
   福原京跡は鵯越駅の東南東 2.5kmの距離にあります。


                    
左写真は鵯越筋(1)西側の谷筋。
   丸山大橋(標高 170m)の上より、その南側を撮影。

   写真中央左の緑が鵯越筋(1)。
   その右の小山が丸山(標高 141m)で、
   この丸山の裏すぐに明泉寺(標高 58m)があります。
   丸山大橋から見ると、 1.8km南に明泉寺があり、
   明泉寺から更に 4kmほど南に行ったところに
   大輪田泊がありました。

   写真中央右側の緑は高取山の南裾野です。


            
鵯越古道・鵯越筋は、
   福原京跡、夢野<山の手>陣、明泉寺に通じる
   交通の要地でした。

義経は旧暦2月7日未明、
   平家北面の山の手陣を撃破すべく、
   この地(鵯越筋)より出撃して行ったのでした。
          春暁の 鵯越より 出撃す  俳子


   *義経進軍路の謎 藍那〜鵯越
      本稿と同じテーマを扱っております。
      合わせてご検討いただければ うれしいです。

                      
                               前のページへ   このページのTOPへ   次のページ
 
     ホームへ