福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


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  ・一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
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     (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース
  ・源平一の谷の合戦 余話
    平清盛参詣道と丹生山田の郷
    義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
            藍那〜鵯越
              写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                         須磨一ノ谷の道
              写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                          鵯越筋への道U
              写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
              写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                          夢野・福原京跡への道U
           土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
              写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
    生田の森の陥穽T / 生田の森の陥穽U
    一の谷の迷路
  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
        写真集< 鵯越からの道 > (3) 藍那・相談ヶ辻   *

義経は、高尾山地蔵院から
   須磨にも鵯越筋にも行くことができません。
   義経は旧暦2月7日未明、いったいどの道を進軍して行ったのでしょうか ?
この謎を解くには、
   「義経が開戦前夜、高尾山地蔵院近くに露営した」という
   本稿最初の想定とは異なった、
   新たな真正史実を見つけださなければなりません。

左写真は高尾山地蔵院の稲荷大明神。


                                    
義経は開戦前夜、
   高尾山地蔵院近くに露営しなかったのではないか。

そう推測できる理由がふたつあります。
 (1)高尾山は、
   その北面以外は崖や急峻な坂になっていて、
   暁闇をついて人馬を進めることができず、
   義経は須磨にも鵯越筋にも行くことができません。
 (2)高尾山地蔵院の地には、
   義経・安田義定・多田行綱の率いる兵約七百騎の
   露営をまかなえる豊かな水源がありません。
(1)はすでに前稿にて詳説しましたので、以下(2)について論じます。

左写真は、高尾山地蔵院の観世音菩薩像。


                   

高尾山地蔵院の地には、古くより
    「霊泉白たき井」があったとされていますが、
    左写真のように水は白濁して、澱んでいます。
    水量も多くないようです。
高尾山の標高は403m、地蔵院の標高は 375m、
   両者の距離は150mです。

高尾山地蔵院は高尾山の山頂に近くにあるので、
   水源が豊かであるはずがありません。


             



地蔵院の西すぐを通っている周回バス道から撮影した
   左写真をごらんください。

地蔵院は、左写真の茂みの一番高い所のすぐ裏側に
   あります。


                     
左写真は高尾山地蔵院全景。
   稲荷大明神のすぐ後ろが尾根筋。
地蔵院は、高尾山山頂の谷筋ではなく、尾根筋にあり、
   この地に湧き出る井が豊かであるはずがありません。

高尾山地蔵院は、義経軍露営地としては不適で、
   しかも、この地からは須磨へも鵯越にも行けません。

高尾山地蔵院は開戦前夜の義経軍露営地ではなかった !
   それでは、義経軍露営地はどこだったのでしょうか ?
もう一度、話をふりだし(義経軍出発の地・藍那
   相談ヶ辻)にもどして、考え直してみましょう。


             

左写真は、藍那・相談ヶ辻そばにある
    国営明石海峡公園 >あいな里山公園


旧暦2月6日、山田町東下から藍那古道を通って
    藍那に進軍して来た義経は、
    写真中央の小山の裏側(現・神鉄「藍那」駅)
    から反時計回りに兵を進めて、
    写真中央右端の民家の前まで来たところで、軍議を開きます。

この軍議で何が話しあわれたかはこちらをどうぞ。


                



左写真・中央右の白い建物の左すぐが藍那・相談ヶ辻。


相談ヶ辻より須磨・白川に行くには、
   (1) 写真左隅を流れる小川沿いか、
   (2) 写真中央の小山の道(尾根道)かの
   いずれかから、西南の方向(写真奥側)に進軍しなれればなりません。







(1) の小川は、須磨・白川に向かって緩やかに流れていますが、
    今は、あいな里山公園の柵に阻まれて行くことができません。


                     


(2) の尾根道を行くことにしましょう。

この道は、藍那・相談ヶ辻から、しあわせの村の西面沿いを通って
   須磨・白川の大歳神社に至る道で、
   古くは白辺路(しらべじ)古道として知られ、
   現在では、「徳川道」「太陽と緑の道」と呼ばれ、
   ハイキングコースとして利用されている尾根道です。





この尾根道には急坂がなく、
   須磨・白川まで緩やかな下だりが続いています。

地理データで見ると、
   藍那・相談ヶ辻の標高は 278m。白川・大歳神社の標高は 166m。
   藍那と大歳神社は直線距離で 4.7km離れていて、
   標高差が下り約 110mとなっています。






左写真は、しあわせの村北ゲート道から見た白辺路古道。
   白辺路は、写真中央右寄り・しあわせの村の北入口の
   坂を下った所にある赤屋根の建物(北口ゲート)の
   すぐ後ろの山並み(濃い緑)の中を通っています。
   (写真右側が藍那で、左側が須磨・白川です)


                                         

左写真は、しあわせの村南ゲートから見た白辺路。

   白辺路は、しあわせの村の後方・横に広がる
   平らな山並みの中を通っています。
   藍那は、写真の右側にあります。
   手前の斜面は、高尾山の西急斜面。

もし義経が藍那から須磨一ノ谷に行きたいのであれば、
   倍以上も遠回りになる鵯越経由の道なき難路を行くよりも、
   この緩やかな尾根道(白辺路)を下るのが自然です。


                                             
が、藍那・相談ヶ辻で軍議が開かれた結果、
 ・京都出立時に範頼軍と間で申し合わせされていた、
    義経軍全軍が須磨攻めを行うという
    作戦基本計画の一部が急遽、変更されて、
 ・土肥実平主力軍約千五百騎は、当初計画通り白辺路を南進して、
    須磨・白川、多井畑を経て塩屋谷川沿いに進出、布陣する、
 ・義経搦手軍約七百騎は、相談ヶ辻で兵を南東寄りに転進させて、
    藍那・相談ヶ辻〜山田町藍那・上小野〜星和台7(標高324m)へと、
    鵯越古道沿いに兵を進めることになりました。

左写真正面の小山の左端を通っている道が藍那〜鵯越古道。
   相談ヶ辻は写真・右下先すぐにあります。
   写真正面の小山の右端にある道を、尾根伝いに
   写真右側(西南の方向)に行くと、須磨・白川に出ます。

                      
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