福原京と兵庫津の道を訪ねて |
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写真集 < 鵯越からの道 >(2)鵯越筋への道 U * | |
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鵯越墓園の中程近くの高尾山東斜面上部に、 「ひよどりごえばし」があります。 |
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「ひよどりごえばし」近くから山の稜線を見上げると、 左写真のように急斜面が広がっています。 |
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「ひよどりごえばし」近くから谷を覗くと、左写真のようになっています。 「ひよどりごえばし」の真下にはV字型の狭い窪みがあり、 その窪みは、稜線近くから細く長く谷底(写真中央)まで続いていますが、 水は流れていません。斜面が余りに急峻なために、 雨が降るときだけ水が流れる「川」なのでしょう。 |
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高尾山の東斜面は、切れ目ひとつなく、左写真のような急斜面となっています。 |
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鵯越墓園の南門近くまで南下すると、大仏(左写真中央)があります。 |
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大仏の下を通る道を下って、 車の通れない墓地内のジグザグ小径をいくつも下って行くと… |
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無縁塚のある墓地にたどりつきます。 見上げると、左写真のような急斜面になっています。 高尾山地蔵院の標高は 370m。 無縁塚のある墓地は、高尾山地蔵院から 2.2km離れていて、 標高は140mで、その標高差は235mです。 それから鵯越墓園大仏の標高は 215m。 無縁塚墓地は大仏から 150m離れていて、その標高差は 75mです。 高尾山の東斜面を人馬で下り降りるのはとても無理です。 |
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左写真は鵯越墓園南門近くの墓地。 左が高尾山の南端斜面で、右がイヤガ谷東尾根。 鵯越墓園で、高尾山の山裾に墓地があるのは、 墓園開発初期に墓地化が進んだ、この地のみです。 鵯越墓園の案内板を見ると明らかなように、 墓園バスは高尾山の上層部〜中腹部を周回していて、 墓地のほとんどが周回バス道沿いに点在しています。 なぜ、墓地の多くが高尾山山頂近くにつくられのか ? それは、高尾山が、その山頂近くは傾斜が比較的に緩やかで、 山裾近くが急角度で落ち込んでいる、がためです。 |
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左写真の上寄りに見えるのは鵯越大仏。建立は 1932年。 この頃には、すでに高尾山の南面は墓地(鵯越墓園旧墓地)として 利用されていたようですが、鵯越墓園の大規模開発が始まったのは、 意外と新しくて、昭和38年(1963年)になってからです。 鵯越墓園は、高尾山を丸ごと利用した総面積200ヘクタールの 大規模霊園で、墓参バスが墓園内を運行しています。 このような大規模墓地が神戸の都心近くにあるのは、 高尾山が丸ごと手付かずの状態で長く放置されていたからです。 義経が逆落としをしたのは1184年。今より700年以上も前に、 この人の入りを拒む未開の地・高尾山に、 義経が騎馬進軍できるような道は本当にあったのでしょうか? |
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高尾山の周辺も見てみましょう…、 イヤガ谷東尾根の西側・イヤガ谷川筋には丸山断層があります。 左写真の左寄りふたつが高尾山。その右ふたつが イヤガ谷東尾根、その右の一番高い山が菊水山です。 |
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丸山断層は、約1500万年前にできた地層の上に 約1億9000万年前にできた地層が逆転して重なっている衝上断層で、 高尾山の南南西 4km・長田区明泉寺町にあります。 |
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イヤガ谷東尾根の東側には菊水断層があって、 菊水山との間の谷は狭くて深いです。 左写真は烏原川上流にある石井ダム。 石井ダム堰の上から撮影。写真中央奥に鈴蘭台があり、 写真の右側が菊水山で、左側がイヤガ谷東尾根。 福原〜丹生神社に至る清盛参詣道は、 菊水山とイヤガ谷東尾の山間(現・石井ダム底)を通っていました。 |
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六甲山は、50万年ぐらい前の地殻変動によってできた 比較的若い山で、断層が多いです。 その形状がどうなっているかというと、 六甲山系は、六甲山最高峰より西側を見ると、 ・六甲山最高峰〜新穂高&摩耶山〜高雄山〜再度山〜鍋蓋山 〜菊水山〜高尾山〜須磨連山〜淡路島へと東西に弓なりに連なり、 ・しかも、その連山はひと繋がりに繋がっておらず、 高尾山と須磨・高取山との間で、南北に約4kmほどズレていて、 ・高尾山の西にも、須磨・高取山の東にも高い山がありません。 高尾山は、50万年ぐらい前の六甲山地殻変動の急所に 位置する山だったので、斜面が急峻なのです。 左写真は高尾山地蔵院近くより見た須磨連山。 薄い青色の山がそれで、左より高取山、横尾山、そして空に浮かんでいる ように見えるのが淡路島。鉄拐山と鉢伏山は横尾山の向こう側にあります。 |
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左写真は、丸山大橋上から見た高尾山の南斜面。 写真上中央近くに見えるのは 山麓バイパスのトンネル(入口の標高は 190m)。 高尾山(標高 402m)は、写真左上の方向に直線距離で 1.7kmほど 行った先にあります。山麓バイパス・源平大橋(標高 190m)は、 左写真撮影地・丸山大橋直下の最も標高の低い地点 (標高 132m)から 500mほど離れていて、その標高差は 60mです。 高尾山の西斜面、南斜面・東斜面もダメでした…。 義経は高尾山地蔵院近くに露営して、旧暦2月7日未明に、 いったいどの道をどこへ向けて進軍して行ったのでしょうか ? 謎は深まるばかりです。 次ページにて、この謎解きに挑戦します。 |
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