福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


   平清盛と福原京跡T / 平清盛と福原京跡U
   一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)T / 一の谷と福原京をつなぐ道(平家編)U
   一の谷と福原京をつなぐ道(源義経編) 開戦前後の義経
                            義経の奇襲T / 義経の奇襲U
        (須磨一の谷関連:源平・歴史ウォーク 一の谷合戦・坂落としコース

   源平一の谷の合戦 余話
      平清盛参詣道と丹生山田の郷
      義経進軍路の謎  義経進軍路の概略 / 三草山の戦い / 義経と丹生山田の郷
                  藍那〜鵯越
                     写真集<鵯越からの道>(1)高尾山から須磨への道
                                      須磨一ノ谷の道
                     写真集<鵯越からの道>(2)鵯越筋への道T
                                      鵯越筋への道U
                     写真集<鵯越からの道>(3)藍那・相談ヶ辻
                     写真集<鵯越からの道>(4)夢野・福原京跡への道T
                                      夢野・福原京跡への道U
                  土肥実平軍の進路 / 平家敗走の時系列
                     写真集<塩屋から平家須磨砦への道T>
                     写真集<塩屋から平家須磨砦への道U>
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                源 平 一 の 谷 の 合 戦 余 話          

     新説「一の谷 = 烏原谷〜福原京」説というのは、要約すると、
       源平一の谷の合戦において、
       平家総大将・宗盛の本陣が大輪田泊(和田岬付近)に置かれたことによって
       兵力手薄な砦となった福原京跡(雪御所町)を、
       源義経主従70騎が鵯越筋から烏原古道(清盛参詣道)を通って直撃・急襲したとする説。

    源平一の谷の合戦は謎多き合戦で、未解決な問題がまだまだたくさんあって、
       以下、折に触れて論じていきたいと思います。  

    
            平 清 盛 参 詣 道 と 丹 生 山 田 の 郷         *

   < 烏原古道 >
        烏原古道は、福原京から烏原川(石井川)を遡り、鵯越(標高140m)を経て
          菊水山の西の谷(現・石井ダムの標高190m)を北進、
          小部(現・鈴蘭台の標高 約300m)、北五葉を通って長坂山(峠道364m)を越え、
          東下(標高170m)を抜けて丹生神社(標高510m)に至る道(全行程20km)で、
          清盛はこの道を輿に担がれて往復したとされています。
        参考サイト:神戸市文書館 >烏原古道



   < 丹生神社 >
        丹生神社は仏教伝来(552年)以前に起源を持つ古社。
        丹生山明要寺は541年、百済聖明王の王子童男行者が開いたとされています。
        平清盛が当時、衰微していた山上の丹生寺(後の明要寺)を復興し、日吉山権現を祀って、
          月参りをしたと伝えられています。
        丹生山中の参詣道には、清盛が1丁(約109m)ごとに建てたという丁石が残っています。
        参考サイト:北神戸 丹生山田の郷 >丹生神社・明要寺跡



   < 清盛参詣の背景 >
        北神戸 丹生山田の郷 >清盛の参詣道(烏原谷越)によると、
            「清盛が福原京遷都をした際、京になぞらえたのは丹生山だけではなく
            多くの京の風物を新都に移し衆人の意識を新都に向けようと苦心した。
            山田の隣村、唐櫃村を大原にみたてて京都八瀬の民を移し、
            北野村(中央区北野町)に北野天満宮を、
            春日野(中央区筒井町)に春日明神を、熊野権現を夢野村に、
            妙法寺(須磨区)を鞍馬に摸して新鞍馬寺として鞍馬寺の毘沙門天を勧請したと謂われている」
          と、清盛の丹生山への月参りを「福原新都」づくりの一環としてとらえ、積極的に評価されています。
 
       本稿も、清盛は福原京周辺地域の有力者に所領を与えて平家支配権の拡大をはかった、
           清盛は月に一度の丹生参詣という形で自ら直参して、
           軍事を含めた丹生山田の郷の統治経営にあたった、と考えています。



   < 北面防備の要・丹生山田の郷と唐櫃 >
        本陣を福原・雪見御所に置くことを当然としていた清盛と、
          本陣を大輪田泊に構えた宗盛との違いは、
          都の北面防備をどうするかに顕著にあらわれています。
        おのが福原陣形の弱点を熟知していて、それを手当てしようと尽力していた清盛に対して、
          宗盛は清盛陣形の弱点にはあまりにも無頓着でした。



    < 京都から西国に抜ける裏街道 >
        丹生山田の郷は、六甲連山(摩耶山〜高取山)と丹生山系の間を流れる
           山田川(志染川)沿いにわずかに広がる山間地域で、
           灘の酒の原料米・山田錦(山田穂)発祥の地としても知られています。

        北神戸 丹生山田の郷 >北神戸 山田町によると、
           丹生山田の郷は「丹生山系の北側の淡河川の川筋とともに京都・摂津から
           播磨・山陽方面に抜ける裏街道としての役割を果たし、いつの時代にも人々の往来があり、
           結果として都の文化が早くから伝わり豊かな地域文化が育った」とされています。

        福原京は六甲連山の自然要害によって北面を護られていたとしても、
           山筋ひとつ北の丹生山田の郷は、京都から西国に抜ける裏街道上にあって、
           京都からのアクセスが意外なぼど良く、この地を制せられると、
           福原京はたちまち窮地に陥ります。
        清盛死後 3年、西国転戦から福原京の地に復帰した宗盛・平家軍は、
           この地の軍事的重要性に気づいていませんでした。
           唐櫃の地はともかくとして、丹生山田の郷は無防備に近く、
           義経軍はこの地に易々と進出しました。
           義経軍の勝利への快進撃は、この時からすでにはじまっていた、と本稿は考えていますが…、


      義経進軍路については、いろいろと謎も多く、
         この謎をどう解くかはまことに悩ましいところです。  詳細は次のページへどうぞ
  
       

  
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