福原京と兵庫津の道を訪ねて |
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一の谷と福原京をつなぐ道(源 義経 編) 開戦前後の義経 * * | |
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ここからは源 義経の話になります。 矢合わせは寿永3年(1184年)2月7日午前6時予定。 2月6日までの義経の行動を整理すると、 ・後白河法王から源頼朝に下った平家追討の命を 受けて、範頼・義経が京都をたったのは2月4日 ・2月5日夜、三草山の戦い ・2月6日、藍那・相談ヶ辻 と、強行軍を続けて、2月6日夜には、 左写真の鵯越碑の近く(半径500m圏内)に露営したのではないかと思います。 鵯越碑(標高 175m)が建っている場所は、 鵯越墓園(神戸市北区山田町下谷上字中一里山12-1)の入口です。 このとき、源範頼(主力軍)は生田の森近くに、土肥実平(副軍)は 須磨・塩屋近くに進出していて、源氏軍は開戦を待つばかりとなりました。 |
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左写真は義経馬つなぎの松(義経公御陣の跡) 撮影地:鵯越墓園内 高尾山地蔵院 ・源平一ノ谷の合戦の際に、源義経が馬をつないだとされる松。 1950年代に害虫被害に遭い、現在は切り株を残すのみとなっています。 この義経馬つなぎの松がある高尾山山頂近くが義経軍開戦前夜の露営地 だったのではないか、とされていますが、これには異論があって…、 ・1184年に義経が馬をつなぐことができた松が、そのまま1950年代まで 生き長らえたとすると、その樹齢は766年以上もあったことになります。 ・松の樹齢については、長寿の松としては、 静岡市の三保の松原の「羽衣の松」が樹齢650年、東京都江戸川区・ 善養寺の「影向の松」(国の天然記念物)が樹齢600年、というのがあります。 ・立ち枯れになった義経馬つなぎの松は、天然記念物級の松だったのでしょうか、 それとも二代目か三代目か…の義経馬つなぎの松だったのでしょうか。 |
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開戦前夜に義経軍が鵯越のどこに露営したのか、 ・翌日未明に須磨一ノ谷に行くには、高尾山西斜面上 にある「義経馬つなぎの松」の地が便利ですが、 ・この地は、鵯越墓園として開発される前は、樹木が 茂っているだけの、道らしい道のない山中でした。 ・義経の時代には地蔵院は存在せず、宿泊できる施設があったわけでもありません。 ・また、この地にあるとされた「霊泉白たき井」は、高尾山の山頂近くに 豊かな水源があるはずもなく、現況の枯れ井状態と大差がなかった…。 ・このため、高尾山の山頂近くに露営するよりは、イヤガ谷川が流れていて、 鵯越古道が通っている高尾山の東斜面〜イヤガ谷東尾根に露営する方が、 はるかに合理的ですが、この地では、須磨一ノ谷に行くには不便です。 ・が、もし義経が鵯越筋を南下して、平家北面軍を攻略しようとしていたのであれば、 高尾山東斜面〜イヤガ谷東尾根のイヤガ谷沿い一帯こそが、 開戦前夜の義経軍の露営にふさわしい地でした。 |
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本稿の推論では、義経・安田義定・多田行綱軍約七百騎は、 左写真のイヤガ谷川沿いの川原一帯に、兵を縦長に配して露営しました。 この地の標高は約150〜200m、夢野八幡神社(標高 50m)からの距離は約 3km。 平家・夢野<山の手>陣に近く、 しかも平家軍に事前に察知されない程度には離れている上に、 平家軍よりも高所にあって、夜襲をしかけられても防御しやすい地でした。 左写真の撮影日はは2013年3月12日。 開戦前日は旧暦1184年2月6日、新暦では3月19日で、時節がほぼ同じですから、 イヤガ谷川には、義経の時代にも約七百の兵が露営できる水があったと思われます。 |
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左写真は鵯越碑の近くから見た神戸市街地。 * ・右中央の横長に見える山が高取山(標高 326m) ・高取山の山裾の少し先の丸い緑の近くに、2月7日早朝に戦があった明泉寺があります。 ・明泉寺近くの小山と地平線が交わる辺りに大輪田泊(和田岬近辺)が見えます。 開戦前夜、高尾山東斜面〜イヤガ谷東尾根にかけての谷間一帯で露営した義経は、 左写真近くに配備された最前衛部隊からの報告を受けて、敵情視察を行うのために 鵯越筋まで出向き、左写真とほぼ同じアングルの夜景を目にします。 大輪田泊近くにおびただしい数の篝火がある。ここに総大将・宗盛の陣ありとの報もある。 これは平家軍の奇計か ? 謀略か ? いや、違う。大輪田泊近くに、やはり平家本陣がある ! 義経は、翌朝の初動作戦の変更を思いつきます。 「平家敗れたり ! 」 義経はそう思ったに違いありません。 |
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義経は北方面からの攻撃を最重要と考えていました。 ・平家軍は、生田と須磨の両翼から攻めるだけでは陥落しない(その片方、あるいは 両方を陥しても、そこから福原京跡地や夢野に攻めのぼるのは容易でない)。 ・特に福原京の兵站基地・夢野<山の手>は、平通盛を大将軍とし、 猛将・教経や、経正、経俊、業盛、盛俊らを配する堅塁で、 ・ここは北の高所から攻めるほかなく、 ・夢野<山の手>を制圧できれば、福原京跡地の本陣は裸の城になる。 こう考えて、開戦前夜に高尾山東斜面〜イヤガ谷東尾根の地に露営したのでした。 ・明朝未明には鵯越筋を南下、 ・左写真(現・ひよどり展望公園・標高 185m)の南斜面に本陣を構えて、 ・北西高所より夢野<山の手>軍を攻撃する。 ・搦手軍を現・夢野大師福寿院を経て東進させ、夢野<山の手>軍の直近高所を制圧する。 これが義経の最初の作戦だったのではないでしょうか。 |
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本稿が「義経・夢野<山の手>攻めの本陣」とする場所は、 「ひよどり中央突破」説が「義経逆落し」の場とする坂と、くしくも一致します。 左写真は、「ひよどり中央突破」説が「義経逆落し」の 場とする坂の上の方(神戸市長田区滝谷町12)。 ここら辺りから滝山町〜夢野口にかけての坂が、「義経逆落し」の場とされています。 |
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左写真は、会下山公園(標高 56mの地)より見た鵯越筋。 小高い山の西寄り(写真向かって左)、 高層マンションの後側辺りに義経・夢野<山の手>攻めの本陣が置かれました。 本稿がこの地を「義経坂落し」の場としないのは、 ・義経精鋭70騎が坂落ししても奇襲をかける先がない。 ・夢野<山の手>軍は不意討ちしてもすぐには陥ちない。 ・会下山に直進して、善光寺や宗盛本陣に迫ろうとしても、会下山の北側斜面は急峻で、 坂の手前で阻止され、夢野<山の手>軍本隊の高所からの追撃を背後から受けて、 義経70騎の方が撃退される。 . ・夢野<山の手>開戦の時系列上に無理がある、 と考えるからです。 |
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左写真は、会下山公園の北側急斜面。 左写真の撮影地から会下山公園上部にたどり着くためには、左写真の箇所では、 まず右に行ってから左に折れて、右に折れ、もう一度左折れしなければなりません。 左写真の撮影地の標高は49m。そこから 40m離れた所(写真中央の桜の木の陰)に 海員萬霊塔があって、その標高は 60mです。 現在の会下山公園は、上部広場を広くするために平坦に切り取られていますが、 源平の頃には会下山という山で、その頂上部分の標高は今よりも高かった。 (この会下山は軍事的要地で、後に楠正成が 湊川合戦の本陣を設けた地として知られています) この地は夢野<山の手>陣から南に約1km下った所にあり、開戦時には、 夢野<山の手>陣南面の前線砦だっただけでなく、宗盛本陣北面の 前線砦としての要地でもあったので、少なからざる兵が配されており、 ここをわずか70騎で攻めるのは無謀極まりないことでした。 |
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それから、もうひとつ、もし「ひよどり中央突破」説が説くように、 義経坂落しが滝山町〜夢野口の坂で行われたのだとすると、 夢野<山の手>開戦の時系列に齟齬が生じるというのは…、 もし仮に義経坂落しが安田・多田軍本陣の設営と明泉寺砦攻めの 後に行われたのだとすると、義経坂落しと会下山攻めは、 安田・多田軍に対峙する平家・夢野<山の手>軍の眼前を横切って 行うほかなかったので、平家の不意をつく奇襲たりえません。 もし仮に安田・多田軍本陣の設営や明泉寺攻めの前に義経坂落し奇襲が 行われたのだとすると、義経坂落しが京都出立時に決められていた 「午前6時の矢合わせ」に遅れること2時間、午前8時に開始されたので、 明泉寺攻めも、矢合わせに2時間以上遅れて行われたのでしょう。 が、開戦前夜、安田・多田軍は義経とともに・鵯越に露営していて、 夢野のすぐ近くにいたので、矢合わせに2時間以上も遅れて 参戦するのは不合理としか言いようがありません。 左写真は会下山公園南端より望む雪見御所町(写真中央右) |
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更に、義経坂落し奇襲は成功裏に完遂されたわけで、 会下山砦を撃破した義経70騎は、逃げ惑う会下山砦兵を追って、善光寺や 平家・大輪田泊本陣を急襲することになるけれども、この好機に、安田・多田軍本体は 義経70騎に追随せずに、会下山撃破によってすでに戦略的価値を失っていた後方の 小さな砦・明泉寺攻めに、やおら着手することになるのです !? こうした夢野<山の手>開戦の時系列上の齟齬は、「義経70騎が会下山砦を 奇襲・撃破」したとすることから生じた齟齬なのではないでしょうか。 ここは、夢野での安田・多田軍の初動は、矢合わせの午前6時前後に行われたと 考えるのが自然で、それから2時間後に行われる義経坂落し奇襲は、夢野以外の、 平家が予想だにしなかった場所で行われた、と考えるほかないのではないでしょうか。 左写真は大倉山公園より望む鵯越筋(写真中央の山並み)。 平家・夢野<山の手>本陣は、この鵯越筋南面直下に置かれ、 安田・多田軍の本陣は、この鵯越筋の西端に設営されました。 |
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義経は会下山攻めを行いませんでした。 それでは開戦当日、義経はどう行動したのでしょうか ? この答えを見つけるためには、その前に、宗盛が大輪田泊に本陣を設営したことに 対応して、義経が作戦をどのように変更したのかを明らかにしなければなりません。 義経の夢野<山の手>攻めは、以下の通り行われました。 ・安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて(変更)、 ・ひよどり展望公園の下辺りに本陣を設営(変更なし)。 ・先鋒をふたつに分けて(変更なし)、 ・右翼を明泉寺攻めに向かわせ(変更)、 ・左翼を夢野口の北に配して平家軍と対峙させ、大音響を発して騒ぐが、深押ししない(変更)。 左写真は、現・ひよどり展望公園より撮影。 夢野口(高層マンションの辺り)や会下山公園(写真中央のみどり)が見えます。 「夢野<山の手>攻めの源氏本陣」は手前みどりの真下に構えられたと思われます。 |
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義経の「開戦時の作戦変更」がどのようなものだったのか、整理してみましょう。 義経は最初、福原京の後方兵站基地・夢野を制圧すべく、自らも加わって 平通盛軍攻めを行うつもりでしたが、宗盛・平家本陣が大輪田泊に置かれたことから、 精鋭70騎を率いて別行動をとることにしました。 義経の抜けた安田義定・多田行綱軍は、平通盛・夢野軍を、北西・高所より牽制しながら、 平盛俊・明泉寺孤塁を攻撃して陽動作戦を展開し、 義経70騎が隠密裏に行動(奇襲)できるようにしたのでした。 左写真は神戸市長田区滝谷町1丁目にて撮影。明泉寺は写真手前の 古びた家屋の右側 500mに、夢野口は左の高層マンション辺りにあります。 |
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明泉寺(神戸市長田区明泉町2丁目) 平盛俊がこの地に陣を張っていたことから、戦火で焼失。 観応2年(1351年)に今の地に復興。 義経が源氏北面軍の開戦の地を明泉寺とした、 その軍事的意味は? それから義経の意図は何だったのか? を整理すると… |
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宗盛本陣が大輪田泊に設営されたことで、 いろいろな場所が、それ以前と違った意味を持つようになりました。 明泉寺の地もそのひとつで、 ・平家本陣が福原京跡地に置かれた場合には、もし仮に明泉寺砦を攻略されたとしても、 夢野<山の手>陣や会下山砦が平家本陣の前面を護っているし、 源氏北面軍がこの夢野<山の手>陣との戦闘を回避して会下山の南を遠く迂回して 福原京跡地本陣を直撃したとしても、頼盛山荘砦と夢野<山の手>陣の兵で 高所より挟撃すれば、十分に対応することができます。 ・平家本陣が大輪田泊に置かれた場合には、明泉寺が安田・多田軍によって抜かれると、 その約3〜4km先にある大輪田泊へ至る道で自然要害の地はどこにもなくなります。 左写真は明泉寺本殿 |
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宗盛が本陣を大輪田泊に置いたために、 ・平家は明泉寺の地を放棄することができず、 ・この地が形勢不利になると、 平家・夢野<山の手>陣は、現・ひよどり展望公園近くに本陣を構えた 源氏搦め手軍の圧力を気にしながら、会下山砦経由の援軍を 明泉寺に逐次投入するほかなかったのでした。 こうして夢野<山の手>軍は、開戦間もなき頃に、 西方面への火急の対応を強いられることとなりました。 左写真は、明泉寺境内にある武蔵守平朝臣知章の墓。 平知章は明泉寺に立て籠もる父・知盛を助けようとして、明泉寺の近くで討ち死にしました。 |
夢野<山の手>軍が、福原京跡地の反対側(西方面)に気をとられていた時、 義経主従70騎は、どこで何をしていたのでしょうか ? 次ページに続きます |
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