福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


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     一の谷と福原京をつなぐ道(源 義経 編) 義経の奇襲 T *
開戦直後に、夢野<山の手>軍が福原京跡地の反対側(西方面)の
    平盛俊・明泉寺に気をとられていた時、
    義経主従70騎は何をしていたのでしょうか ?
義経の考えはこうです。
 ・宗盛本陣が大輪田泊に置かれることによって、
    安徳天皇や三種の神器や総大将を護る兵は、
    福原京跡地から大輪田泊に大挙移動する。
 ・福原京跡砦は兵が手薄となり、攻略しやすくなる。
 ・夢野<山の手>軍が西方の戦にてこずれば、
    福原京跡地への配慮は疎かになる。
    鵯越より福原京の地に入ることのできる烏原古道への関心も薄れる。
 ・精鋭70騎が烏原古道を一気に下って、福原京跡砦に北から
    奇襲攻撃をかければ、福原京跡砦は容易に陥落する。
左写真は@神戸電鉄「鵯越」駅(標高 135m)付近。
  烏原古道は左右の山が重なっている間を通っています。


                            


烏原古道は福原京から烏原川(石井川)を遡り、鵯越を
   経て菊水山の西の谷を北進、小部、北五葉を通って
   長坂山を越え、東下を抜けて丹生神社に至る道で、
   清盛はこの道を輿に担がれて往復したとされています。
   参考サイト:神戸市文書館 >烏原古道

左写真は烏原貯水池(1904年築造)の上流(標高100m)。
   烏原古道が通っていたと推定される地




鵯越筋より、烏原古道(斜めひとつ左上の写真)に入るには、
  @斜めふたつ左上の写真の神戸電鉄「鵯越」駅付近か、
  A左写真の現・兵庫区里山町の雑木林(標高 150m)か、
  B斜めひとつ下の写真の夢野大師福寿院(標高155m)に至る
  尾根の道なき道か のいずれかを選ぶ必要があります。

左写真はA現・兵庫区里山町の雑木林 


                        



左写真はB夢野大師福寿院(標高155m)に至る尾根道

安田・多田軍の動向が気になるならAかBが良く、
   できるだけ早く福原京跡砦の北に出たいなら@が良いようです。



上記の@ABのいずれを取っても、
   義経は烏原古道に入ることができます。


                        
まず、神戸電鉄「鵯越」駅付近から川沿いを行く@のコースから
   考えて見ましょう。

神鉄「鵯越」駅から雪御所町までは直線距離で約 2km、
   ここを歩くとなると、現在のハイキングコースでは4km弱、
   よく整備されているので、下りは1時間もかかりません。

左写真は神鉄「鵯越」駅から烏原貯水池へ下る
   ハイキングコース。
   石井川(烏原川)はガードレールの下を流れています。



左写真は、烏原貯水池上流を流れる烏原川。

清盛は、丹生神社に参詣する際には、烏原古道を輿に
   担がれて行き来しました。このことからも明らかなように、
   清盛の時代にも難路ではなかった烏原古道を下って
   義経70騎が進軍したとするならば、
   矢合わせに2時間も遅れることはなかったはずです。


義経は、神戸電鉄「鵯越」駅付近からイヤガ谷川沿い(赤線)を行き、
   烏原古道(青線)に入る@のコースを進軍しませんでした !!
この最も簡単な@のコースを行かなかった理由として考えられるのは、
   (1) 義経が指揮できるのは、精鋭といえども、その数、わずか70騎。
     この少ない兵で奇襲を成功させるためには、平家に気づかれないように、
     平家の待ち伏せ攻撃にあわないように進軍するほかなかった、
   (2) 義経軍は総勢約七百騎で、平家軍に比べて、その兵少なく、
     安田・多田軍の初動に不安があり、
     その陣取りの首尾を見定めてから、奇襲戦を展開したかった、
   ということだったのではないでしょうか。

義経に残されていた道は、AかBのコースのみ。
    だが、しかし、義経の時代には、Aの道もBの道もなかった。
    道なき道を行くとしたら、烏原古道に接続のよいAを選ぶしかなかった !!


兵庫区里山町の雑木林を経て、現・烏原貯水池最上流の地近くに
    進軍した義経 70騎。
    彼らは、そこから先、どう進軍したのでしょうか。

本稿では、義経・福原京奇襲コースとして
    以下の 3つの基本コースを考えてみました。
 ・コースの南限は、夢野大師福寿院を経て
     千鳥町に至る尾根の道なき道。
 ・中央路は烏原古道(清盛参詣道)。
 ・北限は、神戸電鉄「鵯越」駅から現・烏原貯水池を
     経て、烏原川の北山中の道なき難路を行くコース。


中央路は烏原古道(清盛参詣道)です。

左写真は烏原貯水池(1904年築造)。標高は立ヶ畑ダム堰で 90m。

烏原古道の一部はこの貯水池の下に沈んでいます。
    烏原古道がこの写真のどこをどう通っていたのか、
    そこを義経主従70騎が下るとすると、
    どれくらいの時間がかかったのか、
    烏原貯水池が存在する今となっては確認のしようがありません。


烏原古道は、福原京の近くは、烏原川(石井川)に沿う道です。
 ・烏原川の流水量が、清盛・義経時代にどれくらいあったかは不明です。
   旧暦2月7日なので雨量少なく、水量は左写真ほど多くはなかった、
   緑の茂みも濃くはなかった、と思われます。
義経70騎がこの川沿いを下ることは、
   清盛がここを輿に担がれて往復した事から考えて、
   極めて容易であったと推測されますが、
   烏原谷は福原京近くになると谷が深く狭くなっているので、
   平家の待ち伏せ攻撃にあうと、義経は壊滅的な打撃を受ける恐れがあります。

左写真は石井川上流(標高50m)。
   撮影地は烏原貯水池の下(兵庫区天王町2) 2009年6月6日撮影


                                
南限コースは、
 ・夢野大師福寿院を経て
     千鳥町に至る尾根の道なき道で、
 ・この尾根を東進すると、
     左写真の民家群の地(標高50m)にたどり着きます。
 ・左写真の右の茂みの向こうには、大山咋神社
     (神戸市兵庫区山王町1-6-5)があります。
 ・石井川はこの地で蛇行、東に流れていたのが南進するようになります。
 ・ここから南へ約 300m行くと雪見御所跡があります。

南限コースは、
   夢野<山の手>軍の直近高所を横切るために、
   平家軍に気づかれやすいという難点をもっています。


                                      

北限コースは、
   烏原川の北の山中の道なき難路を行くコースです。

烏原貯水池の少し下流にある山麓リボンの道標識を
   北方向に上がると、左写真の地(標高80m)に出ます。
   ・大山咋神社は向かって左の茂みの下部にあります。
   ・雪見御所町は、この谷が終わった、すぐ先にあります。 




本稿は、北限コースを最有力としました。

義経70騎は、
 ・兵庫区里山町の雑木林を経て烏原古道に入り、
 ・烏原貯水池のある辺り(標高120m)から、東側の尾根道(左写真
    中央手前の山並み・標高150m)に入った、と推定しました。
    (左写真中央後方に見えるのは菊水山・標高458.8m)


左写真は、義経70騎が行った北限コースの、
    烏原貯水池(標高120m)越え地点(標高140m)。
    赤線矢印のあたりだったと推定しました。

新説「義経 70騎の坂落しコース」を要約すると、
    以下のようになります(地名表示は現在名)。
      鵯越筋〜6:00 ひよどり展望公園(標高180m)
      〜鵯越筋〜兵庫区里山町の雑木林(標高160m)
      〜烏原貯水池・烏原谷(標高100m)
      〜7:00 菊水山の南西裾野山中(標高140m)
      〜関ヶ谷(標高120m)〜天王町4

 義経70騎が天王町4より先を、どのように進軍したのか?
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