福原京跡と兵庫津の道を訪ねて


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  ・神戸観光名所歳時記 福原京跡と兵庫津の道
 
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     一の谷と福原京をつなぐ道(源 義経 編) 義経の奇襲 U  *
関ヶ谷(標高120m)を下って、天王町4に入ると、
   左写真の地(撮影地の標高80m)に出ます。
   大山咋神社は向かって左の茂みの下部にあります。
   雪見御所町は、この谷が終わった先、300mの所にあります。
もし義経の率いる兵が70騎でなく、その倍以上だったなら、
   義経は、先遣隊をこの谷の上から攻め下らせて石井川北岸を制圧し、
   本隊を烏原川沿いに東進させて、大山咋神社砦を攻略することができたでしょうが、
わずか70騎では、兵を二手に分ける余裕はなく、
   70騎でこの見通しの良い谷の長き坂を下れば、
   大山咋神社の守備兵にその動きを事前に察知されて、
   福原京跡砦の守備隊によって石井川口で阻止され、
   戦線が硬直化したところを、駈けつけてきた夢野
   <山の手>援軍によって壊滅させられたことでしょう。
義経70騎は、この天王町4の坂を下りませんでした。


それでは、義経はどの谷の坂を下って、福原京跡砦を急襲したのでしょうか。

本稿は、上写真の坂よりもうひとつ東寄りの坂で、
   福原京跡砦の北面中央部にある坂を、義経が坂落ししたと推定しました。
その理由はひとつ。このもうひとつ東寄りの坂こそが、
   福原京跡砦の平家軍に気づかれないで、
   福原京跡砦に入りうる唯一の坂だったからです。

義経が坂落しした福原京跡砦北面中央の坂 !
   それは一体どのような坂だったのでしょうか ?
この坂には、豊国稲荷神社(左写真)があります。
   豊臣秀吉公を神格化した豊国大神を祀る神社で、
   その所在地は神戸市兵庫区平野獺谷401番。
   1874年に兵庫城の地より移設。標高は75mです。


                          
豊国稲荷神社筋(湊山)の急坂。
 ・2009年6月27日に写真撮影したので、
     樹木は鬱蒼と生い茂っていました。
     一の谷の合戦当時は、炊事・暖房用の薪が必要なので、
     今よりは間伐状態が良かったはずです。
 ・黄色いガードレールの左に小さな川がありますが、
     梅雨時なのに水はほとんど流れていませんでした。

 ・義経が「鹿が降りられるところを
     馬が降りられないはずはない」といったのだとしたら、
     これくらいの急坂だったかもしれません。
 ・この坂を下りると、大山咋神社と平野祇園神社の中間地に出ます。


                           

豊国稲荷神社筋(湊山)急坂の遠景。
        天王谷川東岸(標高30m)より撮影

 ・豊国稲荷神社筋(湊山)の急坂を
    坂の下側から見ると、左写真のようになります。
 ・義経主従 70騎は、
    写真中央の緑の濃い所の向かって右端近くを
    坂落としした、と推定しました。


                               

豊国稲荷神社の鳥居の下から見た
     豊国稲荷神社の坂(2009.11.29撮影)。

 ・豊国稲荷神社は、写真正面の山の中央、
                  山の窪みにあります。
 ・左写真で、鳥居下の舗装された細道(写真中央)が
     見えなくなる地点から、
     豊国稲荷神社の坂が始まっています。


                        


豊国稲荷神社の坂を下って下りると、
     左写真のところ(山王町・標高50m)に出ます。

 ・この地は古くは「堂仏」(天子がお住みになっていた所)
     といわれていて、安徳天皇が福原遷都の半年を
     過ごした「本皇居の平野殿」があった所です。


                               
左写真は平野展望公園(神戸市兵庫区平野町350-1)の
   高台(標高55m)から見おろした雪見御所町。
 ・清盛の雪見御所(標高約 30m)は、豊国稲荷神社の
     坂の下地点から約 200m南にありました。
 ・福原京砦は、清盛戦略下にあっては、
     平家全軍を束ねる本陣のある最重要拠点でしたが、
     本陣が大輪田泊にある宗盛戦略下では、
     北面の護りは夢野<山の手>陣に委ねられおり、
     福原京跡砦は軍事的空白区域となりました。
 ・が、福原京跡砦は、なおも攻略しがたき地であるとされて、
     開戦時には、平家有力武将ゆかりの女人や子どもと、
     それを護る老兵・雑兵が配され、平家軍の兵站を担う後方基地として、
     平家全軍の兵糧(朝餉や携帯食)を作っていました。
 ・福原京跡砦の守備兵たちは、生田や須磨の陣が破られた場合に備えて、
     頼盛の山荘など南面を中心にして、南に向かって布陣していました。


                                    
宗盛・半方円の陣の正面中央の最前線にありながら、
   山と川に囲まれた攻略されがたき最後衛の地とされて、
   非戦闘員とそれを護るわずかな兵の籠もる福原京跡砦が、
   義経 70騎の北面からの奇襲によってどうなったのか ? を見る前に、
   今少し寄り道して、
   豊国稲荷神社の坂のある福原京跡砦の北面一帯が
   どうなっているのか、見てみましょう。

左写真は大山咋神社(神戸市兵庫区山王町1-6-5・標高60m)
 ・大山咋神社は聖武天皇の時代からあったとされるも、創立年月は不詳。
   平清盛福原遷都に際し、雪見御所鎮護のため再建造営されたと伝えられています。
 ・大山咋神社は、豊国稲荷神社の坂した地点の西方150mにあって、
   背後を急峻な山の斜面で護られ、
   すぐ西を流れる烏原川(石井川)沿いに侵入してくるかも知れない敵に備えていました。


                        
左写真は平野祇園神社の階段。
 ・平野祇園神社は、豊国稲荷神社の坂から約400m東、
      天王谷川の向こう岸の高所にあります。

 ・大山咋神社と平野祇園神社(標高65m)の2地点は、
     福原京の北面を固める軍事上の要地。
 ・開戦時に福原京跡砦の兵が手薄になっていたとしても、
     このふたつの砦にはまとまった守備兵が
     置かれていただろうと思います。
 ・が、平野祇園神社に置かれた兵の開戦時の関心は
     東方にあって、生田の森で始まったばかりの
     戦の帰趨を、固唾を呑んで見守っていました。


                        
左写真は、平野祇園神社の境内からみた上祇園町と
   山王町。山際近くの赤い屋根が湊山温泉。
   そのすぐそばを流れているのが天王谷川。
   湊山温泉の所で山端がせりだしていて、福原京跡砦
   北面は平野祇園神社からは見ずらくなっています。

平野祇園神社は、急坂上の高所にあり、
   そのすぐ西を天王谷が流れていて、
   福原京跡砦の東面から攻めてくる敵や、天王谷沿いに
   北から侵入してくる敵を防ぐ砦にはなりえても、
   福原京跡砦背面(北面)の火急事態に
   即、対応できる軍事拠点ではありませんでした。


                            
このため、豊国稲荷神社の急坂を下って
   侵攻してきた義経70騎に応戦できたのは、
   大山咋神社近くの砦にいた守備兵30名のみでした。
 
大山咋神社砦は、北西側の烏原川口を固めるための砦で、
   北東側(豊国稲荷神社の坂側)には
   簡単な防御柵すら築かれていませんでしたので、
   守備兵30名は、義経70騎に背後を突かれて、
   応戦する間もなく撃ち破られてしまいました。

左写真はKOBE de 清盛 2012 「歴史館」の
   清盛隊演舞場(背後)の幟絵の一部 


                           
大山咋神社砦が不意を突かれて陥落すると、
   福原京跡砦の北面は無防備状態となりました。

義経主従70騎は南進して、平家北面の屋形に火を放ち、
   福原京跡陣を急追しました。

夢野<山の手>軍は、義経奇襲に呼応した安田・多田軍の
   北西からの総攻撃によって身動きがとれません。

福原京跡砦中枢と南面を固めていた守備兵は、
   位の高い女人・子どもを逃がすのに手いっぱいで、
   義経奇襲に応戦することもできず、たちまちにして崩れ、
   女人・子どもともども南の大輪田泊めざして一目散に逃げ惑いました。


                              
赤旗を放り捨て、大輪田泊めざして逃げ惑う平家。
   福原京跡砦にあがる黒煙を背にして、それを猛追する義経主従70騎。
大輪田泊の宗盛本陣は、これを見て、源氏の大軍が押し寄せてきたと錯覚、
   戦う間もなく、船5艘へと逃げこんだのでした。
こうして義経の福原京跡砦への奇襲開始より 2時間後、
   兵の数では源氏を圧倒していた平家軍は総崩れとなり、
   午前10時頃には源氏軍の勝利が確定したのでした。
宗盛陣の弱点を逸早く見抜き、後世の人が誰ひとりとして特定できなかった
   秘密の抜け道・烏原古道を通って福原京跡砦を急襲した義経は、まさに
   烏のごとき黒き影となって烏原を飛び抜けた「稀有な
   軍事の天才」だった、としか言いようがありません。

左写真は、兵庫区にある兵庫運河にかかる新川橋の欄干の「源平合戦図屏風」  


                               
戦に生きる者は戦に滅びます。
   福原京跡地に最後の拠り所を求めた平家は滅び、
   この地に残る平家史跡は数えるほどもありません。
   勝者だった義経はやがて朝敵となり、奥州の地で自刃、
   安田義定は謀反の疑いで梟首されました。
書に書かれた「歴史」は、勝者による勝者ための「歴史」であって、
   敗者の真を伝えているかどうかわかりません。
「清盛と福原京」や「義経の一の谷坂落とし」はもっと再評価されるべき
   歴史的事案だと思いますが、何をどう見直したらいいのか、
   歴史家は苦労するだろうと思います。
その点、俳人は気楽で、自由に想像の翼を広げて昔を思い、
   今を句に詠むことができます。清盛が 都の跡や 青葉騒   俳子
左写真は夢御所地蔵尊(標高30m)。
   庶民は、平家が栄えたときも平家が滅びた後も、
   そうしたことに関わりなきかのように静かに生き続けるもののようです。

       
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