平 清 盛 と 福 原 京 跡 U * | |
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左写真は神戸大学医学部附属病院正門脇にある立体駐車場。 (標高28m) ・ここが「楠・荒田遺跡」が発掘された場所で、 この地は荒田八幡神社の 150m東にあります。 ・2003年、「櫓跡と推定される特異な掘立柱建物跡、 およびその南に東西方向39mにわたって並行する 2本の壕遺構が出土しています。」 ・「出土した京都系の土師器(はじき)皿の年代観から、 遺構は福原遷都の時代のものと考えられています。」 |
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左写真は山手熊野神社 (神戸市中央区中山手通7-28-30・標高40m)。 ・「楠・荒田遺跡」が出土した地から 830m北東にあります。 ・昔「宇治野山」といわれた一角にあり、 宇治物部氏族の創建といわれています。 ・福原遷都の際に、1180年(治承4)年頃、 福原遷都造営役の五条大納言藤原邦綱によって再建。 ・藤原邦綱は、この付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建て、 安徳天皇が京都に戻る前に宇治新亭に滞在した とされています。 |
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平野祇園神社(神戸市兵庫区上祇園町12‐1・標高64m) ・「楠・荒田遺跡」が出土した地から、有馬街道沿いを北へ 約 1.1km行くと、平野祇園神社があります。 ・平野祇園神社は、 有馬街道が山間部を抜けて平野部になる境目にあって、 すぐそばを天王谷川が流れています。 ・清盛の時代には、現在の祇園神社の裏山に 潮音山上伽寺があって、 清盛は海潮の音を聞きながら、 経が島築造の計画を練ったといわれています。 平野祇園神社の公式ホームページ http://www.kobe-gionjinjya.com/ |
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湊川上温泉(湊山温泉) 神戸市兵庫区湊山町26-1・標高40m ・湊川上温泉(湊山温泉)は天王谷川沿いの鉱泉。 平野祇園神社の下流すぐの所にあります。 ・「山槐記」(1179)に「清盛邸を去る一丁(109m)にある 湯屋へ車で渡らせ給ふ」とあるので、 清盛はこの地に湧き出ていた鉱泉につかって、 病を癒したかと推測されます。 ・湊川上温泉(湊山温泉)の写真左手(北側)には山が迫り、 右手(南側)すぐを天王谷川が流れています。 |
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湊川上温泉(湊山温泉)で湯浴みをした後、 「雪見御所跡」の碑の西にある町・夢野を訪ねました。 左写真は、雪見御所跡碑のすぐ西にある石井橋。 (石井川右岸から撮影しました) ・すぐ北側に六甲山系(菊水山)の急斜面が迫っています。 |
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石井川にかかる石井橋を渡って、約 500m西進すると、 夢野八幡神社がある兵庫・夢野の地にたどり着きます。 夢野八幡神社(神戸市兵庫区氷室町1-5・標高50m) ・平清盛が都の守護のため守護神として1177年に創祀。 ・平清盛はここに別邸「萱の御所」(平教盛邸)を建て、 後白河法王を一時、幽閉しました。 ・夢野八幡神社は雪見御所の北西、山際の高台にあって、 福原荘全域を見守る地に創祀されました。 |
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氷室神社(神戸市兵庫区氷室町2-7・標高70m) ・夢野八幡神社のすぐそばにあります。 ・仁徳天皇の兄に当たる額田大中彦皇子が遊猟の際に 氷室を発見し、仁徳天皇に氷を献上した故事に よって、氷室神社と呼ばています。 夢野八幡神社や氷室神社の近くに清水が湧き出ていて、 ここらあたりに、源平合戦のとき、平教経が陣取った ことから、夢野清水は「陣馬の井」と呼ばれています。 |
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熊野神社(神戸市兵庫区熊野町 3-1-1・標高40m) ・平清盛が福原に遷都した際、後白河法皇の崇敬のあつ かった紀州熊野権現を勧請し、この地に祭祀しました。 熊野神社は、夢野八幡神社の南西の高台にあります。 夢野八幡神社や熊野神社があるあたりは、 雪見御所から見ると西北西の方向にあり、 雪見御所を見下ろせる高台にあります。 |
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左写真は熊野神社の鳥居。 熊野神社手前の道路は東北東方向に下っています。 熊野神社の南側はやや急な坂になっています。 会下山(標高54m)は熊野神社南1kmの所にあります。 ここら辺一帯は、源平合戦のとき、平家随一の猛将・平 教経が 陣取ったことからも容易に推測されるように、雪見御所の背後を かためる最重要軍事拠点・兵站基地だったかと思われます。 そして、二重壕をめぐらし逆茂木を重ねて陣を固めた 楠・荒田遺跡の武家屋敷(標高30m)や、 荒田八幡神社近くの平頼盛の山荘(標高25m)、 祇園遺跡邸(標高30m)、山手熊野神社(標高40m)の近くに あったとされる五条大納言邦綱の「宇治新亭」などは、 京都方面よりの攻撃に備える前面の砦だったかと思われます。 |
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平清盛が病死したのは1181年で、享年63歳でした。 清盛は最晩年の10余年を雪見御所で過ごしました。 清盛がこの地に住んで尽力したことはふたつ。 ひとつは娘・徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を 握る。もうひとつは、福原の都を軍事要塞化すること。 源氏との戦いに勝利し、清盛なきあとも繁栄し続ける…福原 を難攻不落の砦とすることは、清盛晩年の悲願でした。 左写真は「浄海入道 清盛」像 (兵庫区下三条町) |
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そして清盛の死から 3年後(1184年)、清盛が想定した 場所で、ほぼ想定した通りの合戦が起こりました。 平家は地の利を得て源氏との合戦に勝利するはずでした。 が、結果は清盛が想定したようにはなりませんでした。 天才的軍略家・清盛が知略の限りを尽くして造った 軍事拠点に拠って戦ったのに、平家はなぜ敗れたのか ? 次のページにて論じます。 左写真は「柳原義達 作・清盛像」 (兵庫区切戸町) |
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