福 原 京 跡 と 兵 庫 津 の 道 を 訪 ね て            *

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              生 田 の 森 の 陥 穽                                    *



 福原京造営にのりだした清盛の軍事的な基本構想は、
   ・本陣を石井川と天王谷川に挟まれた三角地帯に置く。
   ・夢野(山の手)に兵站基地を築き、福原京本陣の
     背後を固める。
   ・京都方面からの攻撃に対しては、
     主力軍を生田の森に配して、生田川で迎え撃つ。
   ・西国からの攻撃に対しては、須磨・旗振山の堅塁で防ぐ。

 この清盛陣形は堅固そのもので、
   天下を取る人の構想というのは、やはりどこか違う
   という思いがします。
 が、この清盛陣形にも陥穽というものがあって、
   この稿では、そのひとつ、生田の森の陣の陥穽について
   考えてみたいと思います。
        
       
           








 今回の舞台となるのは、生田の森。


 生田の森は生田神社拝殿の背後に広がる森で、
    左写真のように、樹齢800年をこえる楠大樹が
    鬱蒼と生い茂っています。

 現在は1,600uの広さしかありませんが、
    昔は、現在のフラワーロード(旧生田川)あたりまでおよぶ
    広大な森であったと言われています。
      
      
       
 左写真は生田神社(神戸市中央区下山手通1-2-1)
                    公式サイト

 生田神社は201年(摂政元年)に創建。祭神は稚日女尊。
    (稚日女尊は伊勢神宮に祀られる天照皇大神の御幼名)
 境内の松尾神社にある杉の木に向かい、恋愛成就の
    願い事をすると願いが叶うとのいい伝えから「縁結びの
    神様」として親しまれています。
 創建当初は布引山(砂山・いさごやま)に祀られていましたが、
    799年(延暦18年)に大洪水にあって、
    現在地に移転したと伝えられています。
 この大洪水の際に、祠の周囲に植えられていた松の木が
    洪水を防ぎ切れなかったため、現在でも
    「松の木頼むに足らず」として境内に1本も松を植えず、
    元旦には門松の代わりに杉飾りを立てています。
 806年(大同元年)「生田の神封四十四戸」ありと古書に記され、
    この「生田の神封」一帯が社領であったことから、
    神地神戸(かんべ)の神戸(かんべ)が、
    この地一帯の呼称となりました。
       
       
        
 左写真は生田の森の南西部分。


 生田の森は神戸(かんべ)の要地で、
    幾度となく合戦の舞台となりました。

 1184年(寿永3年)源平一の谷合戦の際には、平家・
    平知盛軍が布陣して、源氏の範頼軍を迎え撃ちました。
 1336年(延元元年)、九州から京都を目指した足利尊氏が
    新田義貞を破った湊川合戦の戦場となりました。
 戦国期には、謀反した荒木村重公が拠っていた花隈城を
    織田軍が攻める際に、この地に陣を構えました。
 この生田の森に布陣して合戦に勝利できたのは
    織田軍のみで、戦績は1勝2敗。

 堅塁でないにもかかわらず、この地が布陣地に選ばれたのは、
    生田の森が京都と西国を結ぶ交通の要衝にある
    広大な森であるがゆえであって、
    必ずしも戦略的な利・不利ではなかったようです。
      
      
       



 左写真は、北野天満神社境内から見た生田の森。
        白い三角屋根の向こう側、
        高層ビル群の手前の緑が生田の森。


 北野天満神社は神戸・北野町の坂の上にあって、
    ここから約 2.5km南に下ると、海があります。

 源平一の谷合戦の頃は、
    今よりも海が近かかったと思われますが、
    生田の森に陣をかまえると、
    この南北約 2kmの凹凸の乏しい防御線はかなり長大で、
    これを線として防衛するとなると、兵の拡散を免れがたく、
    兵の拡散を恐れて生田の森に密集して布陣すれば、
    どの方向からも攻撃を受けやすいことがわかります。
      
      
        
 この生田の森の陣は堅固ではありませんが、
    この近くに陣を構えるのに適した地が他にありません。
    六甲の山際近くに陣を構えると、大部隊を収容できる
    スペースがなく、大きな合戦をする部隊の陣となると、
    生田の森しかないのです。
 生田の森の東を生田川が流れていて、この川を防御線と
    できることが、生田の森の陣の唯一の支えで、
    平家・知盛軍は、生田川に逆茂木(さかもぎ)を並べて
    陣を固めました。
    この平家の防御線が脆弱でなったことは、
    源氏・範頼軍の最初の攻撃が、生田川が海に注ぐ
    波打ち際よりなされ、苦戦を強いられたたことから
    容易に推測されます。

 左写真は生田川。
    現在の生田川はJR新神戸駅西すぐより、まっすぐ南に
    流れていますが、源平合戦当時には、西にやや蛇行
    してから、現在のフラワーロード筋を流れていました。
    また、川幅は今ほど広くなかったようです。
       
       
         

 清盛陣形の弱点は、京都に最も近い生田の森の砦が
    地形的に堅固ではありえないというところにありました。
    このことは清盛も重々承知していて、彼が秀でている
    のは、この弱点を補う術を知っていたことでした。

 生田の森の陣が破られたとき、どうするか。
    清盛は、生田川防御線の内側に、第二の防御線を
    構築しました。
    生田川上流北西山中に「神戸北野天満神社」砦を設け、
    これを起点に、平邦綱の「宇治新亭」(山手熊野神社)、
    「楠・荒田遺跡の武家屋敷」砦を経て、
    平頼盛の山荘(荒田八幡神社)に至る防御線。
    清盛・福原京本陣は、この二重の防御線によって
    京都方面からの攻撃から護られていました。

 左写真は神戸北野天満神社。
    茂みの影に隠れて本殿が見通せないほどの
    急坂の上に、神戸北野天満神社は建っています。
      
      
        
 源平一の谷の合戦の平家総大将・宗盛は、
    生田の森の陣をどうとらえていたのでしょか。
 
 宗盛は生田の森が合戦の主戦場で、しかも生田の森が
    堅塁でないことを承知していました。
 宗盛がとった作戦は、
    ・平家最強部隊(知盛・重盛軍)を本陣にすえ、
    ・平家兵力の多くをさいて、その周りを固めて、
    生田の森陣の強化をはかる というものでした。
 宗盛は、清盛が考えた「生田の森」陣形を踏襲し、
    東から攻める範頼軍にそなえました。
    知盛軍は善戦し、範頼軍は苦戦しました。
 が、ここに「生田の森の陥穽」ともいうべき落とし穴がある
    ことに、宗盛は気づいていませんでした。


 左写真は神戸北野天満神社裏手の山。
    「神戸北野天満神社」は難攻不落の砦でした。
    宗盛は当然、この地にも兵を配備しました。
     
      
        
 宗盛がおかした過ちは、生田の森陣の弱点を補うために
    兵の多くをこの地に投入したことにありました。

 清盛陣形の本陣は雪見御所の地にあり、その兵の一部を
    生田の森に増派しても、なんの問題もありませんでした。
    (自軍の手薄なところを補修するための兵や、
     勝機を見出したときに出撃する兵を保持しているのが
     本陣なのですから)
 宗盛陣形は、戦の進展具合に関係なく、合戦前に
    清盛雪見御所本陣の兵を三分割しました。
      ・主力の近衛兵は大輪田泊の宗盛本陣に、
      ・機動性に富む増派派遣部隊は生田の森に、
      ・残りのわずかな兵を雪見御所の地に。
 この三分割によって増強された「大輪田泊・生田の森」陣形
    には、平家にとって致命的とのいうべき欠陥がありました。


 左写真:神戸北野天満宮より三宮方面を望む
        
       
        
 神戸北野天満神社から荒田八幡神社に至る清盛「第二の
    防御線」は、本陣が雪見御所碑(左写真)の地にあれば、
    うまく機能しますが、大輪田泊に本陣がある場合には、
    大した意味をもちません。
    もし生田の森陣が突破されてしまうと、平坦にして
    幅広な海岸線が生田から大輪田泊まで続いていて、
    防御線としては、わずかに湊川があるだけです。
 それから、もうひとつ。大輪田泊や生田の森に多くの兵を
    とられて手薄な砦になった雪見御所「本陣」。
    この地は生田の森や須磨や夢野の砦が健在ならば、
    攻略されることはなく、平家有力武将の女人・子どもを
    置いておいても大丈夫なはずでしたが…、
    清盛雪見御所本陣にも北面に死角があって、
    義経70騎の奇襲攻撃によってその弱点を突かれると、
    手薄な兵では護る術もなく…、
    しかも、この地が北面より短時間で攻略されてしまうと、
    大輪田泊本陣を護る直近北面の防御線は、
    どこにもしかれていなかったのでした。
      
       
       

 もし平家が敗れるとしたら、清盛の机上想定では、
    生田の森陣の崩壊を「第二の防御線」でも防ぎきれず、
    雪見御所本陣も粉砕されてしまう
    という順で起こると考えられていました。
 が、源平一の谷の合戦では、
    清盛「本陣」の崩壊が大輪田泊の宗盛本陣に波及し、
    それによって、宗盛が最も力を注いで補強した
    生田の森陣が自壊・敗走するという、
    清盛机上想定とは逆向きの推移となりました。

 清盛陣形本陣が最初に崩壊するという事態を、誰が予測
    できたでしょうか。清盛陣形を考案した清盛本人が、
    一番 驚いていることでしょう。
 が、事前の想定通りに行かないのが歴史なのでしょう。


 左写真は、神戸市兵庫区・兵庫運河にかかる新川橋欄干の
             「源平合戦図屏風」(写真はBさん提供)  
        
       
         
 清盛が己が亡き後の平家安泰を考えて考案した清盛陣形。
 大輪田泊本陣という違う戦略を採用しながらも、
    この清盛陣形の就縛から逃れられなかった宗盛の悲劇。
 今の世でもありそうな、この親子確執のドラマは、しかし、
    「生田の森の陥穽」の底に広がる闇にかき消えて、
    今は思い伺うよしもありません…。

 生田の森は今、この地に源平の合戦などなかったかのように
    静かに美しく緑につつまれ、どの梢からか定かではない
    けれど、野鳥のさえずりの声が聞こえてきて、
    森を訪ねる人を 『平家物語』 の諸行無常の世界へと
    誘うのでした…。

 左写真は、生田神社西北門から見た生田の森。 


 次のテーマは、義経逆落としの地・一の谷がどこにあるのか、
    須磨か鵯越か、はたまた第三の地かをめぐる問題です。
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